終了まであと3日です。

国吉駅に留置してあるキハ28‐2346の保存に向けたクラウドファンディングが大詰めを迎えています。

第一ゴールの1000万円はすでに達成して現在1200万円を超えたところです。
できるだけたくさんの金額が集まってほしいと思います。

このクラファンは鉄道会社とは別組織の気動車保存会の方々が実施しているもので、鉄道会社が用途終了でもう要らないという車両を、何とか後世に伝えたい。そのためには運転体験などの用途できちんとお金を稼ぐ方法を確立しないと続けることができませんから、そういう趣旨で活動しているものです。
鉄道会社の事業の一つであれば、第3セクター鉄道ですから補助金などを活用して何とか残すことができると思うのですが、千葉県庁の皆様方も、鉄道会社側も、どうやらあまりそういう考えはないようですから、このままで行ったら朽ち果ててしまうという末路になりかねません。

そういう状況を回避するために、地元の有志が頑張っているのですから、私もこうして応援しているのです。
クラファンをスタートさせる時点でのお約束として、このクラファンで集まった費用は気動車保存会が管理するということで、鉄道会社に徴収されることはないということですからね。

何しろこの車両を持ってきたのは私ですから、現経営陣にこれ以上ご迷惑をおかけすることも気が引けるわけで、価値がわかる皆様方に応援していただくことで、用途不要となった車両を後世に残せればと考えているのです。

さて、その保存会の方から、こんな動画があることを教えていただきました。

https://www.youtube.com/watch?v=uUdAOCGdc2M

YoutubeにUPされたこの動画ですが、ここに房総東線(現外房線)で活躍していたキハ28が出て来ています。

動画のタイトルには
【昔の映像】昭和30年代の房総半島の景色映像と思われます。
となっていますが、10分弱の動画です。皆様、ぜひご覧になってください。

確かに家庭用の当時の8ミリフィルムで記録された映像ですが、UPされた方は昭和30年代と思われると書かれていますが、実はそうではありません。

まず、両国駅に停車するキハ28が出てきます。
ヘッドマークは「そと房」。
向こうのホームにはおそらく165系か153系だと思われますが、電車が写っています。
これだけで昭和30年代ではないことがわかりますね。

じゃあ、いつかと言うと、
房総半島の急行列車は昭和30年代は「清澄」「若潮」「京葉」「外房」など、列車ごとに名前が付けられていて、準急が主役でした。
ところが昭和43年に房総東線は「そと房」、房総西線は「うち房」に統一されたのです。

「外房」から「そと房」に変えたのは読み方を統一させるためです。
なぜなら千葉県の人たちは、それまでは「外房」は「がいぼう」、「内房」は「ないぼう」と読んでいたからですが、やがて訪れる東京地下駅の開業と房総一周の電化完成時には国鉄は房総東線を「そとぼう線」、房総西線を「うちぼう線」と読ませたかったからで、その前段階として急行列車の名前をひらがなに変えたのです。

そして翌年昭和44年には内房線の千倉まで電化が完成しました。
この時に両国駅を発着するSLけん引の列車が廃止されて、165系か153系による電車運転が始まったのです。

それがこの写真です。
これは結解学先生が撮影された両国駅に並ぶ電車と気動車の房総の急行列車ですが、内房電化完成の昭和44年7月から、外房電化完成の昭和47年7月までの3年間だけ、「うち房」「そと房」と表示されていて、しかもこの写真は小型のヘッドマークです。
電車急行が走り始めた昭和44年から45年にかけて、それまでの大型ヘッドマークから小型ヘッドマークに取り換えられましたので、動画に出てくる大型ヘッドマークを取り付けた「そと房」は内房電化の後である昭和44年7月以降に撮影されたということがわかります。

千葉駅に101系がいますしね。

動画には上総興津駅が出てきますが、行川アイランドというレジャーパークができたのが昭和39年。そのレジャーパークの目の前に行川アイランド駅ができたのが昭和45年7月です。
それまでの間は行川アイランドへ行かれる人たちは皆さん上総興津駅で降りて、連絡バスに乗って行きました。
動画の最後の方に上総興津駅に入ってくるキハ26の映像が出てきますが、大型ヘッドマークの「そと房」を取り付けていることと、反対側で待っている貨物列車の牽引機関車がDE10であることから、SL廃止後の昭和44年7月以降、行川アイランド駅ができる昭和45年7月までの1年間に撮影されたものだということがわかるのです。

なぜかって?
だって、私はこの時、上総興津駅で列車を見てましたからね。
紺と赤のストライプのバスが行川アイランドへの連絡専用バスで、私は一度乗ってみたいなあと思いつつも、乗ることができませんでした。

でもって、私がカメラを持って自分で写真が撮れるようになったのが昭和47年の春から。6年生になってからです。

その時に千駄ヶ谷の駅でまもなく廃止されるディーゼル急行「そと房」を写したのが先日もお見せしたこの写真ですが、この年の夏におばあちゃんちへ行った時にはすでに電化が完成していましたので、撮った写真はディーゼル急行ではなくて電車だったのです。

上総興津で交換する特急「わかしお」と急行「みさき」 昭和47年8月

ということで、実はこの動画は昭和44年7月から昭和45年7月までの間に撮影されたということがわかるのですが、何が言いたいのかと言うと、その頃の映像に出てくる車両が今も動く状態で残っているということがどれだけ素晴らしいことなのかということを、ご理解いただける皆様方のお力で、この車両を後世につないで行っていただきたいと願うのであります。

ところで、昭和30年代の房総半島はどういうところだったかと言うと、この映像にも海のシーンが出てきますが、昭和30年代まではアワビやサザエを海中に潜って取る海女さんたちはおっぱい丸出しでした。
房総半島だけじゃなくて、全国的に海女さんたちはそうだったのですが、外からカメラを持った観光客がやってくるようになると、全国同時進行的に海女さんたちもおっぱいを隠すようになっていったのであります。

田舎の温泉に多く残っていた混浴という文化も、同じように消えていったんですよね。

これはネットに出ていた今から15年ぐらい前の御宿(おんじゅく)町の観光ポスター。
おっぱい丸出しの海女さんの写真が15年前の時点で町の観光ポスターですからね。
ここにUPするために、もちろん画像は修正してありますが、実際には丸出しの写真が町中に貼ってありましたから、房総半島にお仕事をいただいた時に、すごいところだなあと思ったものです。

あ~、昭和の時代はよかったなあ。

って思う人、今度、そういう思い出話を語るオフ会を開きましょうかね。(爆)

って、話はそっちじゃなくて、終了まであと3日。

皆さんよろしくお願いいたします。

キハ28-2346の修繕。夢の「鉄道パーク」建設への第一歩を共に。


大型ヘッドマークの「そと房」は昭和43年からの2年間限定だったのです。