国鉄形に対する思い

年を取ると昔のことが度々頭によぎるようになります。

人間というのは当然なんですが、60歳の人は初めて60歳になった人です。
30歳の人は初めて30歳を経験していますし、40歳の人も50歳の人も、皆さんその年齢になるのは初めてのことです。
60歳になるのが2回目、3回目であれば前回の反省を踏まえたうえで行動できるのでしょうが、人間はそうはいきません。

お爺さんお婆さんというのも、昔からお爺さんお婆さんだったわけではなくて、はじめてお爺さんお婆さんになる。

でも、子供のころからお爺さんお婆さんの話を聞いてきていて、30歳の人を見て来ていますし、40歳、50歳、60歳の人のことも見て来ていますし、そういう人たちの話も聞いてきています。

最近は新聞が読めなくなってきたとか、スポーツをやっている人なら、どうも今までのようにはいかなくなったとか、あるいは子供が言うことを聞かないとか。

でも、自分が子供だった時に、親の言うこと聞いてましたか?

年寄りってのは口うるさくて、俺はああいう爺にはなりたくないな、なんて思っていた人多いと思いますが、「そう、そこのあなた、今では立派に口うるさい爺ですよ。」とチコちゃんに言われそうですよね。

つまりはそんなもんで、人間なんて勝手なんです。

そんな中、私はどうも最近昔のことを急に思い出すようになってきていて、それが何の脈略もなく突然出てくるんです。
でも、思い出というのは自分の頭の中の話ですから、別に僻みっぽくなったり、怒りっぽくなったりすることもありませんし、人さまにご迷惑をおかけすることもありません。

ご迷惑をおかけするとすれば、このブログの読者の皆様方に、「また昭和の国鉄の話か」とうんざりされる程度ですから、そういう方はここまでお読みいただいたらページを閉じていただくか、次へスルーしていただければよいのですから、「そこんとこよろしく」ということで、勝手に進めます。

私は東京生まれの東京育ち。
今思い出してもつまらない子供時代を送ったと思います。
だって原っぱはないし、川遊びもない。電車も新型が次々と投入されて趣も何もない。
これ、東京の人にしかわからない気持ちでしょう。

田舎育ちの人は皆さん東京にあこがれますからね。

でも、それと同じように東京育ちの人間は田舎にあこがれる。

でもって、唯一私にとって幸いだったことは、房総半島の上総興津におばあちゃんがいたことで、毎年夏休みになるとおばあちゃんちへ行く。あるいは冬休みや春休みにも出かけていくことができました。

私の父は昭和7年生まれで、渋谷で生まれて築地で育ちましたが、戦争が激しくなっておばあちゃんの実家がある上総興津に疎開をしました。
父親は戦争が終わっても迎えに来ることはなく、土地柄、多分空襲で亡くなったのでしょう。「俺は自分のオヤジの顔をあまり覚えていない。」というのが父の口癖でした。
父はそのまま鴨川の県立高校を出て、海軍から帰ってきて先に東京に出ていた兄を頼って上京して、進駐軍で働きながら所帯を持ったのですが、私が子供の頃、毎年のように両国駅から急行列車に乗って上総興津のおばあちゃんのところへ連れて行ってくれました。

両国駅は房総方面へのターミナル駅で、1972年に東京地下駅(今の横須賀線、総武快速線ホーム)が開業するまでは、外房線、内房線(当時は房総東線、房総西線)、総武本線、成田線の4路線の急行列車が両国駅から発着する賑わいがある駅でした。
総武線の黄色い電車を両国駅で降りると、少し低くなった下の汽車ホームへ降りる階段があるのですが、夏の多客期には閉鎖されていて、一旦電車ホームの改札口を出て、駅前広場から汽車の改札口に並ばされるという旅客ハンドリングでした。

両国駅の駅舎の外に長い列ができていて、時間になると順番にホームへ案内される感じでしたが、始発駅から乗っても、当然ですが座れるはずはありません。
キハ28やキハ26などが8~9両つながった長編成の急行列車ですが、そんなものではさばききれないぐらいお客さんが多かったんです。

列車はホームに回送列車で入線します。
冷房車の時代ではありませんから、車庫から出てくる時点で窓全開で出てきます。
その、窓が開いている回送列車が入線すると、大人たちは皆、手に持っているカバン(当時はボストンバッグ)を窓から投げ入れるのです。
何のためか?
座席を確保するためです。

そうやって、みんな必死で座席を確保して、これからの3時間ほどの旅の安らぎを得ようとするわけですが、そんな時は私の出番で、小学校2~3年生でしたが、大人たちのわきをチョロチョロっとすり抜けて、いち早く座席を陣取ると、「お父さん、こっちだよ!」と言って父たちに席を渡しました。
投げ入れられたボストンバッグを横の席に押しのけて、確保したこともあります。

ときどき、キハ26形の窓が小さい車両が来ることがあって、その車両は座席がゆったりしているんです。
後になって知りましたが、今でいうグリーン車の格下げ車両で、リクライニングしている座席を向かい合わせに固定して普通車として使用していました。
その車両に当たると、旧グリーン車、いわゆるキロですから座席の背もたれが斜めになっていて、背中合わせの座席の間に三角形の空間があるのです。
私はそこに入るのが好きで、大人たちに席を譲って、その三角形の隙間に潜り込みます。もちろん景色など見えませんよ。でもそこに座るとディーゼルエンジンの音が良く聞こえるのです。

昭和45年に内房線が電化されて、その2年後の昭和47年に外房線が電化されたんですが、その2年間は内房線の急行「うち房」には新型の冷房付き電車が入っていましたが、外房線の急行「そと房」は相変わらず非冷房のディーゼルカーでしたから、子供ながらに格の違いが判りましたが、その非冷房なディーゼルカーで毎年のように勝浦の海へ行けたことが、私の国鉄形車両に対する思い出の原点だと思います。

そういう列車の沿線に住んでいて、毎日のように見たり乗ったりしていたら興味がなかったかもしれませんが、おばあちゃんちへ行かれるわくわく感とともに、いい思い出になっているんでしょうね。

ちなみにヘッドマークが「そと房」「うち房」とひらがな混じりで表記されていますが、実は昭和30年代までは千葉県では外房を「がいぼう」、内房を「ないぼう」と呼んでいました。
それを国鉄が房総半島の電化を機に房総東線、房総西線を、外房線、内房線と改名する計画をして、その前段階で急行列車のヘッドマークを「そと」「うち」とひらがな表記していたのです。

その名残りといっては何ですが、外房の御宿に外房タクシーという会社があります。
この会社は「そとぼうタクシー」ではなくて、「がいぼうタクシー」という社名で、予約の電話をかけると、「はい、がいぼうです!」と出るのがなんだかとても懐かしい気がします。

とまあ、こんなことをある時、突然思い出すわけで、今の時代はネットで調べると色々出てきますから、なんだか本当にいい時代になったなあと思うのです。

いすみ鉄道に導入したキハ28‐2346という車両も、実は昭和39年の新製当初は千葉に配属されて房総方面への急行列車に活躍しました。

当時の国鉄は予算が限られていて、車両のやりくりにも難儀していました。
臨時列車には古い車両が充当されるのが当たり前だったのですが、房総半島の夏季輸送はお盆の輸送とは違って、7月中旬から8月いっぱいまで続く長期戦です。
そういう房総の夏季輸送に合わせるように、国鉄は新型車両を落成させて、まずは千葉に配属して夏季輸送に当たらせて、9月以降に本来の配属先に送り込むというアクロバット的運用をしていました。

キハ28‐2346(当時はキハ28‐346)は、こうして昭和39年の夏の新製直後に千葉に来て、ひと夏房総半島で活躍した後に、本来の配置先である米子に送られて、そのままJR西日本管内で長年活躍したという経歴の持ち主ですから、そういう車両が最後まで残っていたのを知った時に、私は何としてでももう一度千葉に戻してあげたかったのです。

そういうことって、理解できる人には理解できますが、「それがどうしたの?」という人にはいくら説明しても理解できないものです。

なぜなら、それが文化だからです。

文明というのは尺度が1つです。
新幹線が300キロで走る。
技術革新、つまり文明の成果ですから、300キロは300キロです。

でも文化というのは価値を測る物差しが人それぞれ違いますから、例えばルーブル博物館のレオナルドダビンチのモナリザは素晴らしいという人もいれば、「だから何なの?」という人もいるわけで、価値基準が一定ではありません。

でも、そういうところが国鉄形車両にはあるわけで、今の田舎は鉄道だけじゃなくて、町そのものも存続の危機に立たされているわけですから、そういう文化的なものをきちんとプロデュースできれば、そこが話題になって、人が振り向いてくれる。そういうことをやって行かなければ地域そのものが廃れるのは目に見えていますから、私は今回のクラウドファンディングを応援したいなと思うのです。

部外者ですけどね。

わからない人にはいくら説明しても理解していただけません。
なぜなら、それが文化ですから。

でも、わかる人たちがそれぞれに応援していただければ、この文化は後世につなぐことができるのではないかなあと、そんな風に思うわけで、私がトキ鉄で国鉄形の観光急行を走らせてるのも、そういう文化を若い人たちに体験してもらって、理解してもらうことで、鉄道が次の時代につながることができるはずですし、そういうことをきちんと地道にやって行かないと、鉄道ばかりじゃなくて、この国の田舎の多くは残ることができないのではないかと思うからです。

キハ28-2346の修繕。夢の「鉄道パーク」建設への第一歩を共に。

※国鉄時代のキハの写真は結解学先生にご提供いただいたものです。