ゴールデンウィークに向けて昭和の企画をしているのですが、昔のいろいろな資料を見ていると、しょっちゅう手が止まります。
仕事になりませんね。
そして、その時々でいろいろなことを思い出すのであります。
昭和51年(1976年)
私は夏休みに上野の日本食堂という国鉄の子会社で食堂車と車内販売のアルバイトをしました。
上野を起点に、青森、山形、新潟、金沢への特急列車に乗務して、車内販売と食堂車のお手伝いをするアルバイトで、当時の金額で1日3000円もらえました。
時給にしたら400円ぐらいでしょうかね。
それが当時の物価でした。
この時刻表はそれから2年後の昭和53年(1978年)のものですが、私が乗務した「白山1号」は、多分時刻はだいたい同じだったと思いますが、食堂車のマークは消えていました。
車両はボンネットの489でしたが、国鉄の変革期だったことがわかります。
上野を9:34に出て金沢に16:15に到着するという、実に6時間40分コース。
今なら「かがやき」で2時間20分ですから、新幹線がいかに地域に恩恵を与えるかということがおわかりいただけると思いますが、当時はとにかく金沢というところは遠かったのです。
さて、時刻表の最下段をご覧いただくと駅弁の欄があります。
当時はここを見るのが楽しみでして、何しろ今のように写真情報があふれている時代ではありませんでしたので、数文字の活字と値段から、いったいどんな駅弁なのだろうかと妄想するのです。
長野駅はきじ焼き丼(500円)、うなぎ弁当(700円)、特製お好み弁当(500円)、鱒の青葉寿司(450円)、山菜栗おこわ(400円)、川中島合戦笹ずし(500円)、ヌードルかつ弁当(500円)
ヌードルかつ弁当って何だろう?
長野県は昔から工夫上手でしたから、こういう名前一つとってみても心惹かれますね。
私の記憶ではだいたい幕の内の標準価格がこの時代は500円。それより安いと安いなと感じ、それより高いと高いなと感じる、一つの基準が500円でした。
今なら1000円といった感じでしょうか。
だから、うなぎ弁当700円は標準より4割高という感じです。
長野の駅弁はまだ続きます。
饅頭や甘味系、飴、羊羹、味噌など長野の駅は大変な種類の駅弁や土産物がありました。
多くの列車が長野始発だったり、通り過ぎる列車も5分、8分停車していますから、相当にぎわったのでしょう。
私が乗務した「白山1号」も長野で4分停車しています。
これを見て思い出したのが、「そういえば長野から追加で車内販売品を積み込んだなぁ。」ということ。
何を積み込んだかというと、駅弁の形をした蕎麦と、缶入りの麦茶。
ホームから食堂車のドアを開けて係のおじさんが段ボールをいくつか乗せてくれました。
その段ボールを開けたら折詰の日本蕎麦と麦茶の缶詰。
今のようにペットボトルなどありませんから、缶ジュースと同じ形の缶に入った麦茶です。
それを見た私は大変な衝撃を受けました。
「麦茶の缶詰? なんだこれは?」
その時の印象です。
で、食堂車のお姉さんに聞いたんです。
「麦茶の缶詰めなんてあるんですか? 売れるんですか?」って。
缶コーラが50円の時代。缶の麦茶も同じ50円です。
何しろ当時は水やお茶にお金を出す時代ではありませんでした。
お金を出すからには甘いものじゃなければ、という時代でしたから、甘くなければ売れませんでした。
だから、麦茶なんか売れるのか?
いや、それ以前に、そういうものが商品としてあるということに驚いたのです。
でも、長野の駅弁に折詰の蕎麦なんてこの時刻表を見る限りはありませんね。
でもって、次のページをめくると、
妙高高原駅に高原そば(300円)というのがあるじゃないですか。
今考えると、おそらく長野駅でこの妙高高原駅の駅弁蕎麦を積んでいたんだと思います。
ただ、昭和51年当時の妙高高原駅の高原そばという駅弁がどんなものか、ネットでも出てきませんので何とも言えませんが、あの有名な長万部の蕎麦と同じような感じだったのではないでしょうか。
そして、私はその駅弁の蕎麦と一緒に缶の麦茶を持って車内をまわったのです。
「こんなもん、売れるわけないじゃないか。誰が買うんだ。」
そう思いながら車内をまわると、「おい、兄ちゃん、一つくれ。麦茶も一緒に。」と、次から次へと売れていくんです。
当時の食堂車はだいたい編成の真ん中辺にあって、前の方が指定席やグリーン車。後ろの方が自由席車になっている。だから、当然指定席車の方から回るんですけど、自由席まで行かない間に売り切れちゃったのを覚えています。
長野を出て、列車はぐんぐんと山に登っていく。
その車内で、「こんなもん売れるわけないじゃないか。」と思っていた私でしたが、列車がサミットを越え下り勾配に差し掛かるころには全部売れてしまって、私は唖然としました。
お~いお茶、などが世に出るはるか前の頃でしたから、甘いものには金を出すけど、缶入りの麦茶など買って飲む人が居るはずない。
その私の常識が大きく変わった瞬間でした。
下り勾配を勢いよく駆け下りていく特急「白山1号」。
ふと車窓を見ると、すぐ近くに妙高山が。
「お前は莫迦だなあ。もう少し勉強しろ。」
妙高山が私にそう語りかけてきた47年前の夏でした。
上越妙高へ帰る新幹線の中で麦茶のボトルを開けようとして、そんなことを思い出したのであります。
今でも妙高山を見上げると、いろいろなことを教えてもらっているのですから、ご縁というのは不思議なものですね。
そういえば、時刻表の欄外を見ると、この年には妙高高原-関山間で土砂崩れが発生して、この白山1号は上越線回りで運転していた時期だったようですね。
今年も災害が起こらないことを祈るばかりです。
おあとがよろしいようで。
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