ルーツを訪ねて。

人にはルーツというものがあります。

自分はどこから来てどこへ行くのか。

私たちの世代はルーツというとアメリカのテレビ番組を思い出す人も多いのではないでしょうか。
アフリカから奴隷として連れてこられた黒人たちが、アメリカで働いて生きていく「ルーツ」という番組がありました。
主人公はクンタキンテ。
1970年代の番組じゃなかったでしょうか。
そんな40年も前のテレビ番組の主人公の名前を、なぜ覚えているかと聞かれれば不思議ですが、覚えているんだから不思議なんです。

オリンピックとかの水泳の選手権を見てて気がつくことがあります。
黒人の水泳選手っていないんですよね。
あれほど運動神経が良くて、スポーツ界で大活躍している黒人ですが、水泳にはいないんです。

どうしてか?
昔、不思議に思って友達に聞いたんです。
そうしたら、
「俺たちは泳げないんだよ。」と言われました。
泳ぐという能力を持って生まれていないらしい。
続いて言われました。
「もし、俺たちが泳げたら、のこのこ船に乗せられてアメリカに連れてこられることはなかった。船から飛び降りて逃げてたよ。」って。

そういうショッキングなルーツは、私たちにあったかどうかは別として、今の私たちにもルーツがあるはずですよね。

昨日、インタビューのお仕事で築地に行きました。

お仕事が終わって、ふと思い出したことがあるんです。

「そういえば、私の本籍地は築地だった。」ってことを。

子供の頃、本籍地が築地だったってことを思い出しまして、行ってみたんですよ。
その本籍地に。

ここは築地本願寺。
なんだか不思議な格好をしたお寺ですね。

この裏手をまわってみると・・・

こんな公園がありました。
この公園、どう見ても昔の川か運河をふさいだ土地ですね。
私の子供の頃には、下町にはこういうところに川や運河がたくさんありましたから。

そこを通り過ぎると、ありました。

中央区築地7丁目7番地。
ここが私の本籍地だったところです。
だったというのは、カミさんと所帯を持った時に本籍地を変えましたから、それまで子供の頃の本籍地がここでした。

今はこんなマンションが建っていますが、ここは紛れもなく今から87年前に私の父親が生まれたところです。

日本人って悲しいもので3代前までさかのぼれる人って意外と少ないんですよね。
なぜならほとんどみんな平民だったから。
由緒ある家柄の人なんて100人中2人ぐらいしかいないんです。
あとは、明治になるまでは苗字もなかった平民なんです。
たぶん我が家もそのうちの一人。

わかっているのは埼玉出身の私の祖父と、勝浦出身の私の祖母が、大正時代にこの場所で所帯を持って、4人の子供をもうけて、そのうちの一番末っ子が私の父ということ。
その父親が中学生になるかならないかの時に、戦争が激しくなって、祖母が子どもたちを連れて、自分の実家がある勝浦に疎開したこと。
その後、戦争が終わって、いくら待っても親父の父親は迎えに来なかった。
まあ、こんなところに1人残ったわけですから、空襲で焼け死んだんでしょう。たぶん。

私は早くして父と別れたので、詳しい話は知らないんです。

もしかしたら、さっき見た埋め立てられた川。
私の祖父が火を逃れて飛び込んで息絶えたところかもしれません。

そういえば、子供の頃、親父が行ってたことを思い出しました。

「本籍地は今では築地7丁目と呼ばれているけど、俺が子どもの頃は小田原町って言ってたんだ。」

確かに親父はそう言っていた。

昭和の時代、特に戦後は町名変更で下町から昔ながらの町名がどんどん消えていきましたから、そういう時代もあったのでしょう。

そんなことを考えながら歩いていると、ふと目に留まりました。

交番です。
小田原町交番って書いてあります。

こんなところに昔の名残があるんですね。

まもなく平成が終わります。
昭和がどんどん遠くなります。
でも、この交番の名前を見て、昭和が急に近くなったのでした。

ああ、そうか。

この春はお彼岸にお墓参りへ行っていないことに気づきました。

なるほど、そういうことなんですね。

仏様はすべてお見通しのようです。

私は近くのすし屋に入ってカウンターの席に座りました。

「ビール下さい。グラスは2つね。」

「はいよ」

お店のおばさんは黙ってグラスを2つ持ってきてくれました。

親父、久しぶりに一杯やろうか。

親父が好きだったサザエの壺焼きで乾杯。

「お前もそんな年になったんだなあ。」

そんな声が聞こえたような気がした春の一日でした。