利他主義

稲盛さんがお亡くなりになられたというニュースを聞いて、改めて自分のやって来たことを考えています。

経営者というのは(別に経営者でなくてもそうかもしれませんが)、常に自分の身を振り返って「これでいいのだろうか?」と自分自身を問うているものです。

人間年を取れば取るほど利己的になる人が増えていきます。
どうしてかというと、これは年を取ってみるとわかるのですが、周囲に年上の人がいなくなる。
会社の中でも、定年近くなれば部下ばかりで、皆さん年下になる。
そうなると持ち上げられるばかりで、みんなが気を使ってくれる存在になっていくわけで、「俺は偉いんだ」と勘違いするようになる人が多い。

特に部長や社長ともなると「俺は偉いんだ」の塊になって、皆さん腫れ物に触るように隅にも置かない取り扱いをする。
そうすると勘違いが助長されるわけで、そこで定年を迎えると、会社から放り出された後でも勘違いが続いて行きますから、生物としての人間の老化現象も合わせて、全然知らないところでも「俺を誰だと思っているんだ!」となるわけです。

まして街を歩けば周りの人は皆年下ばかり。
自分よりも年上の人というのは棺桶に半分足を突っ込んだ人たちばかりという年齢になると、自分のことを誰も制してくれませんから、「俺は偉いんだ。」「俺を誰だと思っているんだ。」の延長線上で、郵便局や銀行やコンビニなど、いわゆる公共の場所でキレる老人が散見されるようになる。
本人としては教えてあげているつもりになっているのですから、始末に負えないということになるのです。

当然私自身もその一人で、このブログは40代の頃に初めて13年。すでに60を超えているわけですから、体力や行動力はもちろん、考えることも違ってきいるのが書いていてよくわかります。

ただ、幸いなことに私は記憶力というものが人より優れていた時期がありまして、それはいつの頃かというと小学校高学年から中学校にかけて。
たぶんそのころは砂漠の砂が水を吸い込むように、一度見聞きしたことはスッと頭の中に入ってしまう特技を持ち合わせていたので、当時のアニソンもCMも今でもしっかりと覚えているし、小学校の校歌も空で歌える。
東京から鹿児島までの駅名も今でもスラスラ言えるわけです。

ただし、脳みそには容量というものがあって、私はだいたいその6年ぐらいの間に自分のハードディスクの容量をほぼほぼ使い切ってしまいましたので、高校の記憶となると中学の半分もなく、大学の記憶となると高校の半分もない。
だから、大人になってから頭を使ってモノを覚えるということがほとんどできなくなってしまっていて、昨日も番組の撮影で台本を渡されて「ではお願いします。」と言われても、頭の中は真っ白け。
横に台本を持ったスタッフについてもらって、「次は何だっけ?」と何度も聞きなおす。

スタッフとしては、「いったい何度言えば覚えるのか?」と思ってると思いますが、だから最初におことわりしているのです。「私はモノが覚えられない。」と。

というわけで何を言いたいのかというと、小学校高学年から中学校にかけての6年間は、親から言われたことや先生から言われたことが素直に頭の中に入っていて、今でもしっかり覚えているというのが特技なのであります。

大人になると「この人は小さいときに親から何を教わってきたんだろう?」と思われる人をよく見かけますが、そういう人って意外と社会的立場が高い人にもいたりする。部長とか社長ともなれば誰も自分に注意する人がいませんからなおさらかもしれませんね。
いわゆる傍若無人というほどではなくても、「俺を誰だっと思っているのか。」という人は意外に多くて、そう、皆さんの周りにもすぐに顔が思い浮かぶ人がいるでしょう。
そういう人のほとんどは田舎の大将で、会社を一歩出たら、町を一歩出たら、あるいは日本語圏を一歩出たらまったくお話にならない人なんですが、私はそういう人を見るたびに「他山の石」とか「人生いたるところ青山あり」とか「人間万事塞翁が馬」という言葉を思い出して自分の行動をあらため、奮起しているのです。

なぜなら、そういう言葉も子供のころ聞いて今でも覚えているから。

子供の頃、「人の嫌がることをしてはいけません。」から始まって。「世のため人のためになる行動をしなさい。」とか、「困っている人を見たら助けなさい。」とか、大人から言われてきたことが、私は今でも頭の中に残っていて、ともすればめんどくさいなと思う心と、常に葛藤しているのであります。

そう、毎日が葛藤なんです。
なぜなら人間はすぐに自分のことしか考えなくなる。

相手にとって自分が何ができる存在なのか、ということじゃなくて、自分にとって相手が何をしてくれる存在なのかということばかりを考えて、そちらに流されていくからで、年を取れば取るほどキレる老人というのは、相手が自分を無視しているとか、相手が自分の言うことをちゃんと聞いてくれていないと勘違いして、公共の場で、見ず知らずの他人に対してブチ切れるのでありまして、相手側も「また来たか。」という態度をするもんだから火に油を注ぐのであります。

閑話休題

稲盛さんは昭和7年生まれ。
40年前に別れた私の父と同い年です。

人間誰でもそうだと思いますが、自分の親の年代の人を偉人とは思えない傾向がありまして、明治生まれのお爺さんやそれよりも昔の人なら、例えば渋沢栄一のような人なら私の世代が生まれる前にお亡くなりになられていますから、伝説になっていて偉人化されやすいのでしょうけど、親の年代というと現人神ではありませんが、どうも偉人という見方ができない。
稲盛さんもそうで、偉い人だと皆さんがおっしゃっているのはよくわかりますが、私はもちろん塾生でも門下生でもありませんし、片っ端から著書を読んだこともありません。

ただ、「ほう、やはりそうですか。」と思うのは、子供のころ大人たち、あるいは祖父母の年齢の人たちから耳にタコができるほど聞かされてきたようなことを、当たり前のように今日まで言い続けられてきた方であり、その教えというのは私の中に沁みついている教えとほとんど一致しているのであります。

その教えの一つというのが利他。
忘己利他というものでありますが、過去のブログの中で3回触れていますので、よろしければご一読ください。(ブログを引越しした時に書式が変わってしまい、改行が消えてしまっております。ちょっと読みづらいですがご勘弁ください。)

2010年1月20日

2013年5月30日

2020年1月8日

人間ともすれば利己主義になりやすいですね。
でも、私は自分のことばかりで相手のことを考えようとしない人とは距離を置かせていただくことにしております。相手のことを考えているふりをして、自分の見返りばかりを求めている人も含めてですが

撮り鉄さんだって大切なお客様なのです。
ただし、どう接して良いかがわからない人から見ると扱いにくい邪魔ものなんですよ。
つまり、心の問題なのです。

撮り鉄の取説が必要ですかね。

皆さん、やさしく接してくれる鉄道に行きましょう。