土讃線 繁藤駅

四国滞在3日目。

今日は土讃線の繁藤(しげとう)駅に行きました。

昨日、中村駅の話をしましたが、中村駅にSLホテルができた同じ昭和47年に土讃線の繁藤駅で山津波が発生し大きな事故がありました。

繁藤災害と言われているものです。

昭和47年は鉄道百年の年ですが、折からのSLブームもあって、恐らく私の人生の中で一番インパクトがあった年だと思います。

梅小路蒸気機関車館の開業。
総武本線でC571の復活運転
八高線D51運転
新橋(汐留)-横浜(高島町)間のC577の運転
などなど、いろいろお祭り騒ぎでしたが、そんな中、小学校6年生だった私が大きな衝撃を受けたのが繁藤事故でした。

昭和47年7月5日
集中豪雨に見舞われていた高知県土佐山田町繁藤地区で大きな土砂崩壊が発生し、駅に停車中の列車が飲み込まれる大災害となりました。

当初、小規模な土砂崩れが発生し、地元の消防団員1名が行方不明になりました。
すぐさま救難隊が編成され、繁藤地区に集まって、行方不明となった消防団員の捜索が開始されました。
そこへ第2波の大規模な土砂崩壊が発生し、繁藤駅に停車中の土讃線の列車を飲み込み、下の川へと流されてしまいました。

機関車1両と客車4両の列車のうち、機関車と前方の客車2両が流されて、当初の行方不明の捜索に当たっていた人たちを含め60名もの方が犠牲となったのが繁藤災害です。

昨日のブログで申しあげましたが、中村駅にSLホテルが誕生したというテレビ中継を記憶している私ですから、この繁藤災害のこともはっきりと覚えています。
列車が川に転落しているヘリコプターから撮影した映像など、先頭の機関車がDF50だったということまで覚えていますから、子供ながらに相当ショッキングな事故だったと思います。

今日は、その繁藤駅を訪問しました。

左手の山から土砂が駅構内に流出し、一番右の線路に停車していた列車を下の川まで押し流しました。

よく見ると奥の杉林と手前の木々の違いが判ると思いますが、この手前の部分が崩れ落ちたところです。
その後、崩壊防止のための土木工事が行われましたが、50年近く経つともうわかりませんね。

土讃線はおそらく20回以上乗っている路線で、ここ繁藤駅も通るたびに繁藤災害のことを思い出していたのですが、今日は訪ねてみました。
最近、行きたいと思う所には行っておこうと考えてます。
60を過ぎるとそういう心境になるものですね。

この右側の線路に停車していた列車が土砂崩壊に飲み込まれたのです。

昭和47年というと1972年ですから今年で49年になります。
こういう災害が発生したことも風化していきますね。
それはそれで仕方がないことだと思います。
でも、そういう過去の事故を教訓として私たちは未来を生きていかなければなりません。

この写真の線路をよく見てください。
真っ白なコンクリート枕木が敷き詰められています。
側線の、あまり列車が通らないところまで、きちんと整備されているのです。
JR四国は経営が大変だと言われていますが、そんな中でも安全運行の取り組みはきちんと行われているのです。

会社の姿勢というものは、こういう所にきちんと現れているのではないでしょうか。

そんなことを考えていたら特急列車がやってきました。
JR四国で大人気のアンパンマン列車です。

こうして鉄道というのは夢と希望を乗せて走っているのですが、そのためには基本的なことをきちんとやって行かなければならない。

今では忘れ去られてしまったようなかつての大災害地に立ってみて、今日は志を新たにしたのであります。

こんな鉄道会社の社長はいないと思いますが、私としては犠牲になられた皆様方の魂が、50年を経過してもなお、語り掛けてくれているような気がするのです。

私に繁藤駅に足を運ばせ、「お前の使命をちゃんと考えろ。」と。

繁藤災害について、ご興味がおありの方はこちらをご覧ください。

繁藤災害 Wikipedia