毎年この時期になると思いだすことがあります。
それは初めて飛行機に乗った1975年(昭和50年)4月2日のこと。
この年に最後となる蒸気機関車に乗りたくて、でも、中学3年で受験になることから、北海道に蒸気機関車に乗りに行くと言っても許してもらえず、「よし、それでは」ということで、14歳の私は誰にも言わずに飛行機で北海道を日帰りしたのです。
親に内緒のこの大事件は結局大人になるまでばれませんでしたが、だったら、2~3泊して、帰ってから怒られたって後の祭りなわけですが、なにぶん小心者としては、そこまでの勇気はなく、日帰りならばれないと思って実行したのであります。
私が最初に乗った1975年4月2日の全日空51便。
機体番号が09と書かれています。
JA8509だということがわかります。
何とこの8509は最後まで全日空に残ったトライスターのうちの1機で、羽田ー鹿児島便で私が最後に乗ったトライスターでありましたが、最初に乗った飛行機でもあったのです。
当時の全日空と日本航空の時刻表です。
全日空の51便が7:20発。
日本航空の501便が7:10発。
2つの時刻表を見比べると、全日空も日本航空もどちらも羽田-札幌間に1日11便飛んでいることがわかります。これが、つまり、国の指導というやつですね。
全日空のトライスターは当時の最新鋭の機種であったのですが、日本航空の501便はDC8-62という古い飛行機でしたので、14歳の私としてはトライスターに乗りたかったんだと思います。
今思えば、DC8にしておけばよかったなあと考えるわけですが、子供心には最新鋭の全日空トライスターがまぶしく映ったのでありました。
滑走路へ向かう全日空51便から見た離陸するJL501便。
10分早く出発した501便のDC8が横を離陸していきます。
これは当時のC滑走路。
33Rだと思います。
向こうに見える海に今の国内線ターミナルが広がっていることになりますが、影も形もありません。
千歳空港に降り立った私は苫小牧から225列車に乗って追分に到着しました。
この写真が追分駅に到着した225列車です。
この間、夕張線に最後に乗りに行ったとき、追分駅の同じ場所で写真を撮ってみたんです。
当時は機関車の車庫があって、貨物もたくさん止まっていて、とても賑やかだった追分駅が、44年後の今はシーンとしていました。
追分に着いた私は改札口を出て線路伝いに機関区に向かいました。
その途中で乗ってきた225列車が岩見沢に向けて発車していきました。
今の同じ場所です。
広い構内はそのままですが、機関区があって、機関車がたくさん停まっていたあたりは、今は何もありません。
一部は分譲地として販売されたのでしょう。
カラフルな家が立ち並んでいます。
唯一面影が残っているとすれば、向こうに見える照明塔でしょうか。
その時のネガに残された追分駅構内のカットです。
私は、追分にはお金が落ちていると思います。
JR北海道を立て直せるほどの大金ではありませんが、それでも拾いに行く価値はあるぐらいのお金は落ちていると思いますよ。
誰か一緒に拾いに行きませんか?
そんなことを毎年この時期に思い出しては考えるのです。
60年近く人生を生きてきて、1つだけ「やっぱりそうだったんだ。」と思うことは、この時、思い切って飛行機に乗って日帰りででも北海道に行ったからこそ、私のその後の人生は飛行機と鉄道が切っても切れなかったんだと思います。
簡単にあきらめてはいけないんだと思います。
だから、若い人たちには、信じる道を進んでいただきたいなあと、そう考えるのであります。
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