昭和の残照 その6

東京駅を23時過ぎに出る大垣行は、貧乏学生の列車としてはありがたい存在でした。
まだ青春18きっぷなどが出るはるか前の時代ですが、急行「銀河2号」の座席車は指定席で周遊券では乗れず、天下の東海道ですからその他の列車はすべて寝台列車。
そんな中で、この大垣行は実に重宝する存在でした。
昭和52年9月28日に私はこの大垣行の電車に乗車しています。



▲一見165系に見えるでしょうが、当時の東海道は153系が幅を利かせていました。

▲会社帰りのサラリーマンもご用達のこの列車。
このおじさん、当時40歳だとして、今80過ぎですね。
「あれから40年。」
人生あっという間です。
(なぜこんなカットを撮影したのはか不明。)

▲先頭には荷物車両が連結されています。
積み込み終了です。

▲未明の浜松駅。
地表ホームにはSL時代の名残の洗面台が残っていました。

▲明け方目を覚ますと大府駅。
武豊線の気動車です。
高山線の急行列車に使用するキハ58が早朝の武豊線の運用に入っていました。

▲まもなく名古屋の車内の図。
足を投げ出して寝ている人もいるということは、それほど混んではいなかったということかもしれません。
このような夜行列車の需要に陰りが見えてきていた時代だったのだと思います。

▲名古屋ではしばらく停車して「きしめんタイム」

▲稲沢

▲岐阜。地表ホーム時代。高山線の10系気動車が懐かしいですね。

▲岐阜を出て終点大垣が目前の車内。
すでにガラガラ状態です。

▲午前7時10分過ぎに終点の大垣に到着です。
ここで大垣行の列車は終了となりますが、西を目指すお客様は陸橋を渡って反対側のホームに待つ西明石行きに乗車します。
寝不足の体に、わずか数分の接続時間で陸橋を渡って乗り継ぐのはかなりきついものがありました。
今なら無理。最初からこういう旅にはチャレンジしませんよ。
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▲そして同じネガの次のコマはこれ。
大垣で接続する西明石行に乗車した私は京都の梅小路蒸気機関車館を訪ねていたのでした。
昭和52年9月29日のことでございます。