交通を補完する交通

公共交通というのは補完しあうことで成り立っています。

 

例えば、自宅から電車に乗って目的地へ向かうとします。

駅まで歩ける距離に住んでいる人は良いとして、駅から遠い人にはバスが必要ですね。

バスに乗って駅へ行くと、ちょうどよいころあいで電車が来て、それに乗って目的地へ向かいます。

次に問題になるのはその目的地までの距離ですね。つまり乗車時間。

10分、15分なら気になりませんが、30分も乗るとなると各駅停車ではなくて快速電車や急行電車がほしくなります。

自分が乗る駅がそういう優等列車が停まる駅なら良いですが、そうでなければ途中で乗り換えてでも優等列車で行こうと思う時間距離がありますし、目的地の駅が各駅停車しか停まらないような駅だったとしても、途中まで速い電車で行こうと思う時間距離もありますね。乗車時間が30~40分を超えると途中駅を通過する電車がほしくなります。

そういう時間距離の区間に、各駅停車しか走っていないような路線は、大した距離でもないのに、「ずいぶん遠いところだなあ。」と感じるから不思議です。

「ああ、各駅しかないんなら、なんだか面倒だなあ。」

お客は勝手ですから、そんなことを思うかもしれません。

そして、目的地の駅に到着して、自分が目指す場所が駅前にあればよいですが、駅から離れたところにある場合は、やはりバスかタクシーに乗っていくことになります。

 

自宅から最寄り駅までバスに乗る。

優等列車が走らない区間は各駅停車に乗る。

目的地の駅に着いたらバスやタクシーに乗りかえる。

バスやタクシーは鉄道を補完する交通機関ですし、各駅停車は快速電車や急行電車を補完する電車だと考えることができます。

公共交通機関というのは、こうしてお互いに補完しあってこそ成り立つもので、つまり、交通というのは総合的な政策であって、そういう見地に立たないと機能しないものなのです。

 

なぜなら、自宅から最寄り駅までバスがなければ、あるいはあっても便利な運用になっていなければ、今の時代は当然マイカーになってしまいます。マイカーになれば、目的地までそのままマイカーで行けばよいだけの話ですから、電車にも乗らなくなります。

こういうことが、日本の場合、郊外や田舎から始まってきて、日本の郊外や田舎は、すでにバスや鉄道には誰も乗らなくなって来てしまっているのです。

 

観光客にとっても同じですね。

行った先で公共交通機関が充実してなければ、例えば駅から歩いては行けない距離にある人気のレストランなどは、電車で来る人には行くことができません。タクシーだといくらとられるかわかりませんし、わかったとしても、片道2000円払うとすれば往復で4000円ですから、お昼ご飯を食べに行くという点では現実的ではありません。だったら最初からマイカーかレンタカーで来ればよいわけで、地域交通を総合的に考えていないところへは、いくらで都心から直通電車が走っているとは言っても、「行った先の足」がありませんから、車に乗れない人にとって見たら、よほどの目的でもない限り、そういうところへは行こうと思いませんし、そういうところへ行く電車には乗ろうと思わなくなります。

 

そして誰も乗らなくなる。

じゃあ、廃止にしましょう。

旧国鉄系の鉄道会社の場合は、こういう発想がお得意ですから、乗らないのはお客が悪い、受け皿ができていない地域が悪い、自分たちのせいではないということで、鉄道を使って目的地へ行くことがどんどん行きづらくなって、行きたくても行けないところになってしまう傾向がありますが、私鉄の場合は、それじゃあ困りますから、電車に接続するように駅前に自社の連絡バスが待っていてくれたり、自社の観光タクシーがあったり、あるいは、極端な場合、駅前に目的地を作っちゃったりすることで、補完機能がなくても電車に乗ってもらえるシステムを作ってきています。

西武電車の豊島園遊園地や西武球場などがその良い例で、向こうについて駅前が目的地であれば、人々は何の迷いもなく電車を選択してそこへ向かうのです。

 

さて、いすみ鉄道のような本線から分岐するローカル支線は、建設当初の本来の目的というのは本線を補完する路線であります。つまりは本流へ向かうための支流ということで、内陸の奥地からの物資や人を本線まで運んできて、そこで本線の列車に乗り換えて都会へ向かうための路線でありますから、自動車交通が発達し、本線の駅まで直接バスや車で来られるようになれば建設当初の役割としては終了しているのでありますが、「当初の役割は終了しているから不要です。」という話をしだすと、では、農村や漁村といった沿線地域はどうなのでしょうか? 「もう役割は終了しているのではないでしょうか?」というお話になってしまうのが今の日本の現状ですから、私は、時代が変われば建設当初の役割は終了したかもしれないけれど、時代に合わせて役割を変えていくことで、必要とされる存在になることが可能だろうと考えて、新しいローカル線の使い方というのを次々に提案させていただいてきたのでありますが、おかげさまで、今ではいすみ鉄道というところは、季節を問わず観光客が訪れる場所になりました。

 

では、私がいすみ鉄道をどのように考えてきたかというと、いすみ鉄道はもともと本線を補完するための鉄道ですから、そのいすみ鉄道を補完するようなバスなどの公共交通機関は基本的にはありません。

ふつうならローカル線を維持する自治体というのは、駅に列車が到着すると自治体が運営するマイクロバスが駅前に停まっていて、列車を降りた接続のお客さんを乗せたそのバスが集落を一回りして駅に戻ってくると、しばらくして列車がやってきて接続していくというような巡回バスをやっているものなんですが、「ローカル線を維持する」と言ってはいても、そういう基本的な知識や発想すらないところで、それにもまして自治体が線路に並行して平気でバスを走らせているような所でしたから、私は、いちいちそういうことを説明しても無駄だと判断して、駅から移動する必要がないように、駅そのものを観光地にしました。おいしい食べ物屋さんに行くにも、駅から足がありませんから、駅弁を作ってもらって駅構内や列車の中で食べてもらうようにしましたし、だったら列車そのものをレストランにしましょうということで、地域のおいしい食材を車内でお召し上がりいただける「レストラン列車」というものを走らせたわけで、そうすることで「補完」のないいすみ鉄道でも、きちんとお客様にご乗車いただけるシステムというものを作ったわけですが、その結果として、いすみ鉄道そのものが、地域を補完する存在になったのではないかと思うのであります。

 

さて、その「補完」というのはどういうことかというと、これはつまり「受け皿になる」ということなのでありまして、だとすれば、こと観光という点について言えば、受け皿があれば「取りこぼしがない」ということでありますから、私はいろいろなところに補完しあうようなシステムが作れれば、地域全体が取りこぼしなく利益を得ることができると考えておりまして、つまり、これが、「いすみ鉄道目当てに観光客がやってくる。」ということで、観光客が来れば、特産品が売れるし、お金が地域に落ちるようになる。お金が落ちるようになれば経済が生まれるし雇用が生まれる。まるでシャンパンタワーのように、頂点に注ぎ込まれた経済(お金)という美酒が、隅々にまでいきわたるようなことになるだろう。そうすれば、ローカル線が経済を生むことになって、そこで生まれた経済が、長年そのローカル線を守り育ててきた地域に、今、そのローカル線が利益をもたらすことができるという、総合的に考えて補完しあう交通の使い方になるのではないか。

私は長年そういうことを提唱し、実践してきたのであります。

 

 

2013年6月のエコノミスト。

 

 

2013年1月の「財界」

 

今から5年ほど前から、こういう経済雑誌がいすみ鉄道を取り上げてくれるようになりました。

それまでは旅行雑誌や観光のテーマでいすみ鉄道を取り上げてもらうことがほとんどでしたが、経済新聞をはじめ、観光以外のところでいすみ鉄道を取り上げていただく記事が増えてきたのがこのころからです。

「うちは黒字なんか出していないんですよ。赤字ローカル線の社長のことなんて記事になるんですか?」

私は笑いながら取材を受けましたが、つまりはこういうことだったのです。

 

 

ということで、さて、これからローカル線をどうするか。

これは、いすみ鉄道の問題ではなくて、実は、この日本という国の問題なのでありますから、そういう観点で物事を考えていかなければならないということなのであります。

 

(つづく)