昭和の残照 その5

悲しいことに全くと言ってよいほど記憶がないのですが、昭和52年7月に私はこの列車に乗りました。

FACEBOOKでこの写真を公開したところ多くの方から中央本線の不定期急行8401列車であるとアドバイスをいただきました。
新宿駅4番線です。
機関車はEF64-16。隣のデカ目の115系は441M、普通列車の長野行です。
昭和40年代までは東京、上野、新宿発ともに各方面へ、機関車がけん引する客車の夜行列車が残っていましたが、最初に電車化されたのが中央線の夜行列車で、この時にはすでに115系化されていましたが、臨時の8401列車が急行「アルプス」として客車夜行が残っていたのです。
これら新宿発の夜行列車は山登りへ行く人たちの御愛用の列車で、それが電車化されるときは、「山男に新型の電車は似合わない」などと新聞でも話題になった記憶がありますが、3扉セミクロスの電車では登山に行く道中、ゆっくりと眠ることはできませんから、その気持ちも理解できました。
だから私も441Mには目もくれず、最初からこの客車列車に乗ろうと決めていたんです。
この時私は高校生になっていて、シャッター速度が調節できるカメラを手にしてこの写真を撮りました。三脚を使用してスローシャッターで撮影したため、ホームの人が流れています。
新宿発の夜行列車は確か何度も乗っていて、ていうか、八ヶ岳も中央西線も、この時代はどこも皆、夜行列車で行く距離でした。
右側の441Mは確か23:55発。左の8401列車の方はその後に出て、途中で441Mを追い抜いて行きます。
どちらの列車に乗るためにも、いったん構内の広場に乗客を集めて整列させた後、列車入線時刻に駅員がホームへ案内するというような方式がとられていましたが、これは混雑する新宿駅のホームに早くから汽車待ちで場所を占有されることを防ぐためのものでした。
その広場のことを「アルプス広場」と呼ばれていたことも、FACEBOOKに頂いたコメントで思い出しました。

ネガに写っていた新宿駅の次のカットがこれ。
午前4時半ごろの小淵沢駅構内。かつての給炭台です。
給水塔とスポートが数年前までここに蒸気機関車が走っていたことを物語っていました。

小淵沢駅のターンテーブルです。
今でも使っていそうな雰囲気で、C56の姿を探してしまいました。


▲給水塔もそのまま残されていました。
ターンテーブルの脇には始発列車に使用するキハが停泊中です。

▲午前5時前の小淵沢駅でC56時代の面影を探していました。
▼するとそこへ昨夜新宿で見た441Mが到着しました。右にちらりと写っているのは80系電車です。

この441Mからたくさんのお客さんが小海線の始発に乗り換えるので、私は足早に小海線のホームへ戻りました。
そのうち上の写真のキハが入換を初めてホームに据え付けられ、私はそれに乗って早朝の小淵沢を離陸。
築堤の大カーブを右旋回して上昇していきました。

降り立ったのは清里駅。
なんだかピカピカです。
ここでこのネガはおしまい。
きちんと整理してないもので、ネガケースには昭和52年6月とだけ書いてあります。
でも、清里へ行くなら夏休みまで待っていたと思いますから、フィルムを入れたままのカメラを持って出かけたのでしょう。
この年はほとんど勉強もせず、大垣夜行に何度も乗って廃止直前の京都市電を訪ねたり、北海道へ行ったりと、すでに蒸気機関車は国鉄線上から消えていましたが、親の仇のように旅行をしまくっていたのです。
この翌年の1978年夏には文化祭の8ミリ映画を撮りにクラスメートと小海線を訪ねていますが、前後で記憶が交錯しているようです。
昭和52年。
清里駅前に停車中のセドリックのタクシーと、女の子がオーバーオールを着ているのを見ると、確かに40年前の写真なのであります。