国鉄木原線の写真 その2

 先日、昭和の国鉄時代の木原線の写真をご紹介させていただきましたが、撮影者で葛飾区にお住いの石田俊幸さんが大多喜駅を訪ねてくれました。


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先日のブログでは「Iさん」とお伝えいたしましたが、本名で掲載の御許可をいただきました。
本日は、その石田さんが撮影された木原線の第2弾、国吉駅です。


昭和44年に中学生だった石田さんが、当時話題になり始めていた「国鉄赤字ローカル線」に興味を持たれて、葛飾区のご自宅から一番近いローカル線ということで、木原線にやってこられましたが、この写真はどこの駅か不明だとおっしゃられていました。
それほど鉄道に興味がなかった少年が、ふらりとやってきて撮影した46年も前の写真ですから、撮影場所がわからないのも当然でしょうね。
場所は国吉駅の下りホームです。
大原から乗った列車を国吉で途中下車し、駅構内を撮影したカットが続きます。
(写真をクリックすると大きくなります。)

▲国吉駅からは列車に接続するようにバスが出ていたようです。
国吉廻り太東行の小湊鉄道のボンネットバスです。
電話ボックスは今も同じ位置。
後ろの貨物取り扱いの上屋は、今、キハ30が入っている引き込み線のところでしょう。
左端の小屋は今もあるような気がします。


▲国吉駅前の集落です。
「木原線廃止絶対反対」と掲げてあります。
前年の国鉄諮問委員会で出された答申「役割を終えた鉄道路線」の中に木原線が含まれていたことから、地元で廃止反対運動が始まった当初の貴重な写真です。
どの家なのかは私にはわかりませんが、苅谷の吉田さんならきっとお分かりになるでしょう。


▲国吉駅です。
下の写真は信号のテコ扱い所ですが、今、商工会の建物があって花壇になっているところです。
信号ケーブルが下を走っているコンクリートの部分(柱と柱の間にペンキで〇が描かれているところ)が、今もそのまま残されていますので、今度いらした時に確認してみてください。
下りホームから見ると、ホームの下に穴が開いているのが、信号ケーブルが通っていた場所です。
ここでテコを操作すると、腕木信号機がガタンと上がったり下がったりするのですが、そのワイヤーケーブルが通っていたところです。
決して電気的な信号ケーブルではありません。ひもを引っ張ると、向こうの信号機が反応するというシンプルなものでした。


▲国吉駅に到着した貨物列車です。
蒸気機関車C12による貨物の運転は昭和39年ごろまでで、それ以降は写真のDD13が引いていましたが、木原線の貨物列車の写真は珍しいですね。
上の写真で左側の線路で貨物取り扱いをしていたことがわかります。
2両編成の停止位置目標がここにあるということは、今のように手前に停止していたのではなかったのかもしれません。
乗務員にタブレットを渡す必要がありましたので、駅員さんが乗る台が停止位置目標の横にありますが、今でも半分朽ち果ててこの位置にあります。
そういう用途で使われていたのを私は知っていましたので、旅客取扱いに関係ない部分でもありますので、撤去せず、あえてそのままにしている部分です。
(よく見ると停目に「行違い列車に限る」と書かれています。交換列車と交換がない列車とでは停止位置が違っていたとすればタブレットの受け渡しの関係だと思いますが、詳細はわかりません。)

▲今の国吉駅。ほぼ同じ位置です。

▲国吉駅前を散策し、貨物列車の撮影をした中学生の石田少年が乗る次の下り列車が大原方面から入ってきました。今度はキハ30の単行です。
左の奥には、今パチンコ屋さんがありますが、一面田んぼだったことがわかります。

▲車両はキハ30-61。
今、国吉駅に保存してあるのはキハ30-62ですから兄弟分ですね。
反対側のホームではお客さんがたくさん待っています。

▲そこへ大多喜方面からの列車が到着。
こちらは石田少年が大原から国吉まで乗ってきた列車が上総中野で折り返してきた2両編成。
キハ30-59+キハ30-58です。
木原線のキハ30はみんな兄弟だったみたいですね。
国吉駅の大多喜方にも1本留置線があったのがわかります。
意外と広々としていたんですね。
ということで、中学生の石田少年が撮影された木原線です。
その少年もすでに定年された61歳ですから、人生早いですが、鉄道車両を通してみると、時代というものが良くわかりますね。
40年ぐらいたって、今のいすみ鉄道の写真を誰かがたくさんUPしてくれるといいですね。
「馬鹿な社長がこんなことやってたんだ。」と、語り草になれば本望です。
次回は大多喜駅をご紹介します。