昭和の残照 その7

今日は疲れたので早めに一杯飲んで休もうと思いますが、そんな時はやっぱり昭和の時間でしょうね。
ということで本日の昭和の時間は昭和52年8月の室蘭本線です。

室蘭本線白老駅を発車するDD51が引く貨物列車です。
まだ日中時間帯でしたが空がまっ黒くなってきました。
昭和52年に私は高校2年生になっていて、同級生の木村君とリュックサックを背負って北海道を旅行していました。
周遊券を使った学生の貧乏旅行ですから、上野を座席夜行の「八甲田」で出て、朝、青森着。青森で日中時間帯を過ごして再び夜行の連絡船に乗車して早朝函館着。などという宿無しの旅でしたが、この時は白老のユースホステルに泊まったところ、建物の後ろが線路で、ちょうどやってきた貨物列車を撮影しました。
実は空がまっ黒いのは8月7日に有珠山が噴火して、その噴煙が風に乗ってこちらに流れてきたためで、太陽の光が遮断されて、日中でも真っ暗になりました。この写真を撮影した数分後には灰混じりの雨が降ってきて、道路が泥流のようになり、車のフロントガラスもすごいことになりました。
室蘭本線を走っていた国鉄最後の蒸気機関車が廃止されたのが昭和50年の年末でしたから、この時はまだ2年しか経ってなくて、「ああ、2年前だったらこの列車はD51牽引だったんだなあ。」などと思ったことを覚えています。
左奥に見える白老駅の跨線橋が黒く煤けているのも蒸気機関車時代の名残ですね。


翌日は白老を出て列車に乗り、苫小牧へやってきました。
苫小牧駅ホームにはキハ17の編成の普通列車が停車していました。
まだ10系気動車は首都圏をはじめとして各地で見られましたが、房総東線でさんざん乗車したキハ17が懐かしくなってシャッターを切りました。
駅弁の立ち売りのおじさんも、なんとなく昭和の出で立ちですね。
「近藤商事」と文字が見えますが、シシャモチップ寿司でしたっけ? このおじさんは先年引退された経営者の方だったのでしょうか。
2年前の昭和50年4月にこのホームから室蘭本線の225列車に乗車したのが、私にとって現役最後のSL乗車になりましたが、この時の私はその時代のSLの名残を道内各所に探す旅をしていて、千歳線の普通列車に乗車して、植苗で下車して、この場所へ行きました。

勇払原野を地平線の彼方から駆けてきた225列車です。
2年前に乗ったのと同じ列車ですが、牽引機はD51に代わって新製配置されたDD51。
この機関車の番号は1164ですが、私が最後に室蘭本線で乗車した225列車の牽引機は1120。帰路の飛行機に乗るべく千歳へ向かうときに沼ノ端で最後に見たカマはD511160でしたので、同じような番号が印象に残りました。
それにしても、この時代のDD51は「赤豚」と呼ばれて嫌われモノでしたが、わたし的にはなかなか気に入っていて、かっこいいなあと思っていたのも事実でございます。
同行の木村君は鉄道に全然興味がなかったものの、「鳥塚が行くところはどんなところかついて行ってみよう。」と言っていて、鉄道ファンでもないのに原野の真ん中の駅で降りて、延々歩いてこの場所に来たのに文句ひとつ言わずに、「おお、すごいところだなあ。北海道らしいな。」と言ってくれました。
木村君、どうしてるかな。
昭和52年(1977年)8月。
直角の背もたれの硬い座席の列車に乗っていることが全く苦にならない時代でした。