大切なのはお金を持っていることではなくて  その1

新しい年度が始まりましたね。
希望に胸を膨らませて、新しい世界でチャレンジを始めた方も多くいらっしゃると思います。
日本人は学校を卒業して社会人になるということは、サラリーマンになることだという常識が長い間続いてきましたし、きっと今もそう思っている若い人たちがたくさんいると思います。
でも、本当にそれは正しいことなのでしょうか。
スタートしたばかりの新社会人の皆様方の出鼻をくじく意図はありませんが、今回はシリーズで数回に分けて、どうやって努力したら、お金に困らないような生活ができるか、私もまだ道半ばですが、私が今まで取り組んできた方法と、どうしてそういう考え方になったかについて皆様方にお伝えしようと思います。
よろしければおつきあいください。
50代半ばになる私が生まれた昭和30年代は、日本はまだ貧しくて、農業や漁業では満足に食べていかれない人が多かったので、都会へ出てサラリーマンになることが、手っ取り早く生きていく術(すべ)を身に着けることでしたから、あとを継がなければならないような長男の人たちを除いて、学校を出ると田舎から都会に出て行く人がたくさんいました。
田舎で仕事にありつくとしたら、役場か学校の先生か、警察官か国鉄ぐらいしかなかった時代ですから、私の親の世代である昭和一けたの人たちや、戦後生まれの代表である団塊の世代と呼ばれる人たちも、皆、学校を卒業してサラリーマンになることが食べて行くための最短の方法で、学校を卒業したら都会へ出てサラリーマンになるというのが、当たり前になっていきました。
学校を卒業して田舎から都会へ出てきた人たちは、お盆やお正月に帰省をするときなど、「故郷に錦を飾る」という言葉通りに、ビシッとした洋服を着こんで、両手に持ちきれないほどのお土産を持ってふるさとの駅に降り立つのが、里帰りの姿でしたが、そういう姿を見ると、田舎の若い人たちは自分も卒業したら都会へ行こうと思いますから、人の流れが田舎から都会へと変わって行きました。
C57の列車が両国から出ていた時代ですが、当時は都会と田舎では着ている服も違っていましたので、都会の人が田舎の駅に降り立つ姿は、田舎の人から見るととてもあか抜けて見えたことでしょう。そういう姿でふるさとの駅に降り立つ先輩たちを見て、田舎の若者たちはこぞって都会を目指したのです。
そのころの日本はまだ高度経済成長が始まる前で、夜明けを迎えるような時期でしたので、ホンダもソニーもトヨタもまだまだ小さな会社でしたが、都会に出てきてサラリーマンになった人たちが、自分たちの給料を稼ぐために一生懸命働いて、会社を大きくし、富を生産して行ったことで、日本は高度経済成長を迎えることになり、これだけ大きな国になることができたのです。
ところが、それだけ頑張って働いてきたサラリーマンの人たちは、今どうしているかというと、皆さん年を取って動けなくなっている人が多くなっていますが、「急速に進む高齢化」、「増大する介護保険や医療費」などとテレビで言われているように、この国のお荷物のような存在として扱われています。
例えば、私の憧れだった蒸気機関車の運転台に乗って炎と格闘しながら汗だらけになってスコップで石炭をくべていたおじさんたちが、私から見たらこの国をこれだけ立派にしてくれたと思うのですが、彼らの功労がどれだけこの国に貢献してきたかというようなことは完全に忘れ去られてしまって、日本の国のお荷物であるような言い方をされていることに私は憤りを感じるわけで、そんな日本がどうして先進国と言えるのだろうかと思うわけです。
もう一つ問題なのは、今元気に活動している私の世代や、私よりも若い世代の人たちが、いずれ順番に年を取って高齢者になることで、やがて来る将来に私たちも、そして皆さんもこの国のお荷物になることは目に見えていて、先日の消費税切り上げのニュースで「年金は減らされて、税金は上がるし、年寄りは早く死ねということでしょうか。」と言っていたおじいさんは他人ごとではないのです。
では、なぜ、日本でこれだけ老人問題が顕著になっているかというと、もちろん、団塊の世代の人たちがこれから迎える急激な高齢化ということが原因ではありますが、私は、日本人がサラリーマンであるということに大きな原因が潜んでいると思うのです。
私たちの世代は偏差値教育真っ只中の世代で、一生懸命勉強して良い高校へ行って、良い大学へ行って、良い会社へ入れれば、人よりも良い給料をもらうことができるし、そうすれば良い生活ができると信じて頑張ってきた世代です。つまり、最初からサラリーマンになることを目指して教育を受けてきたのですが、私たちだけでなく、戦後の日本では、とにかくサラリーマンになることが教育の目的のようなところがありました。そして、みごとにサラリーマンになることができれば、豊かな生活が待っていると誰もが信じていたんです。
もっとも、それはある意味間違ってはいないのですが、私が問題だと思うのは、サラリーマンになって良い給料と良い待遇を享受できるのは、その人がサラリーマンでいる間だけの話で、定年になってしまえば、一時金として支給される退職金と、もらえると信じている年金に頼らなければならない生活が待っていて、あとは貯蓄を取り崩すしかないのがサラリーマンの老後ですから、今、国がお荷物のように扱っているお年寄りたちというのは、かつてサラリーマンだった人たちなんですね。
なぜなら、サラリーマンでない自営業の人たちには基本的に定年などありませんから、65歳でも70歳でも、人によっては80歳でも現役でいることができるのに対し、サラリーマンの人たちは60歳とか64歳で定年を迎えると、給料がもらえなくなりますから、あとはお金を稼ぐことができなくなって、細々とした生活しかできなくなるからです。
ところが、今、子育て真っ最中の若いお母さんたちが何をやってるかというと、幼稚園の子供に英語を習わせたり、私立中学の「お受験」をさせたりという教育を熱心にしていて、これははっきり言って自分の子どもをできるだけ良い学校へ入れて、そうすればできるだけ良い会社へ入れるという、サラリーマンを養成することをやっているわけですが、実はその子育て世代の30代から40代前半ぐらいまでは、お父さんだってバリバリ働いて、会社で重宝がられていて、将来この会社でどこまで上り詰めることができるかという野心に燃えている世代でありますから、自分が学生時代頑張ってきたことが、今の生活に通じていると信じていますし、自分の子供にもそういう道を歩かせたいと思っているからこそ、夫婦そろって子どもの教育に力を入れている。そうして、サラリーマンがまるで遺伝のように次のサラリーマンを生んで育てているのが日本なのです。
でも、そのバリバリのサラリーマンのお父さんだって、40代半ばから50代になるころには、そろそろ先も見えてきて、会社からはお荷物扱いにされるようになるのですが、人間というのは、いざ自分がそうなってみて初めて分かることがたくさんありますから、会社から肩たたきをされて、「なぜ俺なんだ!」と憤慨するときには、自分の息子もしっかりサラリーマンになっているということが繰り返されているのです。
そして、定年を迎えて収入の道を絶たれて経済的に困窮し、会社のお荷物だった人たちが、次に社会のお荷物になるという構造が、これまた繰り返されてずっとずっと続いていくのです。
これが、この国が抱える大きな問題で、その理由がみんなサラリーマンを目指していることに端を発しているというのに、自分の子供に「教育」という名のもとに、一生懸命サラリーマンになる訓練をしているインテリゲンチャの人たちは、いったい何を考えているのかと私は思うのです。
大切なのは、一生懸命勉強して、できるだけ良い会社へ入って、定年までにできるだけ多くのお金を手に入れることではなくて、お金を稼ぐ能力を身に着けることなんですけどねえ。
(つづく)