「昔はよかったなあ」と言うおじさん その4

高度経済成長を経験した日本は、全国あちらこちらに「昔はよかったなあ。」と言うおじさんたちが存在しています。
まして、人間というのは、時間が経てば記憶の中の辛かったことや苦しかったことが美化されて、丸くなっていきますから、誰しもが「昔はよかったなあ」という気持ちになるというものです。
例えば、前回お話しした観光という点で言えば、交通が発達していなかった昭和30年代当時の千葉の房総半島の海は、都会の人たちが夏のレジャーを楽しむための目的地として大人気でしたが、それは高速道路も、新幹線も、飛行機もない時代の話だからです。
一般の人たちが生活費をやりくりしながら、それでも「どこかへ行きたい。」という時代には、両国駅に長い行列ができて、満員の列車に乗って3時間かけてでも、千葉の海へ出かけることが、自分たちが手が届く最大限のレジャーでしたから、列車に座れなくても、民家の畳の部屋を間借りする宿泊でも、そういうことは大して気にならなかったんですね。
それが昭和47年に沖縄の本土復帰があり、昭和50年には海洋博が開催されました。
この海洋博に合わせるかのように国内線の飛行機もジャンボSR(昭和48年)、トライスター(昭和49年)とワイドボディー機が導入され、空の大衆化が始まりました。
つまり、それまでなかった沖縄という目的地が新しくできたのです。
そうなると当然都会の人々の目が沖縄に向きます。
両国駅の駅構内の改札口に並んで、座席も確保できないような列車に3時間も揺られて、行った先が民宿であるという旅のスタイルと、人もうらやむような飛行機で行って、白亜のリゾートホテルに宿泊する旅のスタイルとを比べれば、当然房総半島は陳腐化してしまいます。
その後、1980年代に入ると海外旅行も行きやすくなりましたから、沖縄だけじゃなく、グアム、サイパンといったところも視野に入るようになりました。
房総、沖縄、グアム、サイパンと、どこも東京から3時間という射程範囲としては同じようなところなのです。
私などはまさにこの時代を生きてきましたからよくわかるのですが、小学生のころは房総半島に親戚がいるというと近所の人からうらやましがられました。「いつでも予約しないで、お金もかからずに海に行けていいね。」ということです。
それが、中学生になると、「そういえば鳥塚のところは海に親戚がいたね。」という程度のリアクションになりました。
高校生の時代には、当時の東京の高校生はすでに房総半島には目もむけなくなっていて、竹芝桟橋から東海汽船の船に乗って伊豆七島の新島や神津島へ出かけるのが大人気でしたし、大学生になると、お金を貯めて沖縄や海外へ行くというのがある種のステータスになりましたから、今更千葉の海でもなくなっていたのです。
こうして日本人の「遠くへ行きたい」願望はどんどんエスカレートしていきました。
私より年上の、今65~75歳ぐらいの人たちは、バブル景気に乗って大儲けをしたり、会社の業績が上がって景気が良くなった経験をされている方がたくさんいらっしゃいますから、そういう人たちは何をしてきたのかというと、皆さん海外旅行を堪能されていますし、地中海クルーズやカリブ海クルーズなどが究極の目的だったのです。そして、その最たるものが九州の「ななつ星」であり、今、JR各社が展開しようとしている豪華列車ということなのです。
これが、つまり、「昔はよかったなあ」と言うおじさんたちなわけですが、私が一番気になるのは、若い人たちがこういう話を聞かされて、一体どのような気持ちになるかという点です。
これも皆様経験があると思いますが、自分が若い頃、周囲のおじさんたちから「昔はよかった。」という話をさんざん聞かされたと思います。こんな時皆さんはどのような気持ちになったか、思い出してみてください。
私の子ども時代のおじさんたちは皆戦争経験者でしたから、「昔はよかった。」という話はたいてい武勇伝です。でも、若い人間としてはそんな話は聞きたくない。だいたい、自慢話を聞かされたって面白くもなんともないのですから。唯一面白かったのは、自分が興味ある鉄道や飛行機の話で、「昔は蒸気機関車で苦労した。」とか、「予科練の戦闘機はこういう仕組みになっていた。」などという話には目を輝かせた記憶があります。
そう考えてみると、例えば私が子供だった時代には、東京駅から九州方面へ向かう寝台特急ブルートレインは庶民には高根の花でしたが、いつかは乗ってみたいという希望に満ち溢れた列車だったのです。学生の分際では4人掛けの座席夜行の自由席でしか旅行はできないけれど、「いつか見ていろ俺だって。」という気持ちで、将来への希望の星であったわけです。そしてそういう列車を当時の大人たちは走らせてくれていたんですね。
では、今はどうでしょうか。九州の「ななつ星」が成功したと聞くと、二番煎じ三番煎じで次々と豪華列車が誕生しています。まもなく日本全国でそれら豪華列車が走り始めますが、どの列車も目の玉が飛び出るような金額です。
こういう豪華列車を見て、今の若い人たちはどのように思うのでしょうか。
彼らにとってはこのような豪華列車は「頑張れば手が届く存在」ではありません。
また、頑張って手が届くようになったとしても、彼らは決してこういう列車にはお金は使わないでしょう。
つまり、今の豪華列車は嫌味なだけなんです。
「昔はよかった」というおやじの武勇伝や自慢話など聞きたくないのと同じで、そんな嫌味な列車は夢でもなければ憧れでもない。2泊3日で50万円という金額は、目標としてお金を貯めて頑張れば乗れないことはないと思いますが、いざ50万円貯まったら、そんなものには使いたくないというのが実情でしょう。
私たちが子供のころ、静々と東京駅を発車していくブルートレインを見送った時の夢と希望と憧れは、今のJRの豪華列車には見られません。
子どもの頃、当時のおじさんたちが私たちに夢と希望と憧れを与えてくれたにもかかわらず、数十年後におじさんになった私たちは、今の若い人たちに、鉄道を通して、夢と希望と憧れを与えているでしょうか。もしかしたら失望と嫌味を与えてしまっているかもしれません。
そして、私たちが今の若い人たちに夢と希望と憧れを与えていないとすれば、その若い人たちがおじさんになった時に、鉄道の思い出に対して「昔はよかったなあ。」と言ってもらえるのでしょうか。
世のおじさんたちは、自分たちが懐古趣味的に「昔はよかったなあ」と言うのであれば、それは子供のころ、当時の大人たちがそう思わせてくれたおかげでありますから、今の大人として、きちんとそういう活動をして、子供たちや若い人たちに、将来「昔はよかったなあ」と言ってもらえるようにしなければならないということを肝に銘じる必要があると思います。
私は、子供のころ、当時の鉄道マンの方々にたくさんの思い出を作ってもらいました。
国鉄が混乱していた時代ですから、中には嫌な思い出だってありますが、ありがたいことに時間が解決してくれて、今ではすべて懐かしい思い出です。
だから、今、いすみ鉄道では若い人たちや子供たちにたくさん思い出を作ってもらって、鉄道というものを身近に感じていただき、何十年後、彼らの将来に、おそらくその頃はすでに私たち今のおじさんたちが活動を終了した後でしょうが、彼らが「昔はよかったなあ。」というおじさんたちになってくれれば、ローカル鉄道は次の時代に続いていくと信じて、一生懸命頑張っているのです。
実際、今の若い人たちは所得が右肩上がりで伸びていく時代ではありませんから、遠くへ行くことがなかなかできません。それは、豪華客船クルーズを経験したおじさんたちから見たらかわいそうなことかもしれませんが、若い人たちから見たら、お金をかけて遠くへ行くことしか目標としてこなかったおじさんたちはかわいそうな世代に見えるかもしれません。彼らは、何も遠くへ行かなくたって、近くで十分楽しめるところもあるし、豪華な列車に乗らなくたって、昭和のおんぼろディーゼルカーをたっぷりと楽しめる能力を持ち合わせています。
だから、そういう彼らに向かって、私は房総半島という近場で「昭和を手軽に楽しめるシステム」を提供して、楽しい思い出を作ってもらいたいと考えているのですが、ありがたいことに、今のいすみ鉄道には、子供のころそういう経験をしているおじさんたちが集まってきていて、私が作った「昭和を手軽に楽しめるシステム」をうまく演出してくれていて、子供たちや若い人たちの気持ちに応えるようなサービスをしてくれています。
でも、それはいすみ鉄道ばかりじゃなくて、日本全国を見渡せば、各地のローカル鉄道で頑張っているおじさんたちは、結構そういう人たちが集まって活動していることに気付きますから、私は日本のローカル鉄道の将来は明るいのではないかと思いますし、今は廃れてしまっている田舎の町でも、ローカル鉄道があれば新しいお客様を呼び込むことができ、新しい発展があるはずなのです。
世のおじさんたちは、自分が子供のころ受けたご恩を、今の子供たちにお返ししていくことで、その子供たちがまた将来に繋げてくれるはずです。
「昔はよかったなあ」と言っている暇があったら、今をよくすることで、将来の世代に「昔はよかったなあ」を繋げなければならないということは明白なのですが、それでも何もしないで「昔はよかったなあ。」と言うだけであれば、そういう人は1日も早くご隠居願うということが、今の人たちの将来の「昔はよかったなあ」に繋がるということをご理解いただきたいと思いますが、いかがなものでしょうか。
(おわり)