昭和47年、私が小学校6年生の時に日本の鉄道は百周年を迎えました。
この「鉄道百年」はかなり大きなお祭りで、当時のSLブームと合わせて、ドラマにもなるし、TVや雑誌は鉄道特集ばかりで、世の中は大きな騒ぎになりました。
千葉からSLの煙が消えたのが昭和44年ですが、昭和47年といえばまだ関東近辺に蒸気機関車が残っていて、例えば会津線や只見線にはC11が走っていましたし、小海線でも夏の臨時列車の先頭にC56ががんばっていました。
東北地方に足を伸ばせば陸羽東線、仙山線、米坂線、五能線、矢島線、そして羽越本線にもSLが走っていました。
ところが、当時は東北新幹線もありませんでしたので、会津、只見線や小海線に行くにも学生は夜行列車が当たり前の時代。
羽越線や陸羽東線、五能線というと、気が遠くなるような遠い遠いところだったのです。
だから、小学生としては行きたくても行かれない。
そうこうしているうちに、季節の変わり目になるとダイヤ改正があって、その度にSLが消えて行ったので気が気ではなかったのです。
そんな折、鉄道百年の記念行事で都内、近郊でSLが走ることになりました。
私が記憶しているだけでも、八高線でD51が2両、総武本線でC57-1が、水郡線でハチロクが、そして明治5年に新橋―横浜間が開業してから百周年ということで、東海道本線の汐留駅(貨物駅)―高島駅(横浜の貨物駅)間をC57が引く列車が走ることになったのです。
その時、小学校6年生だった私は、少ない小遣いをやりくりして、八高線と東海道本線に出かけることにしました。
その理由は、八高線はD51が2両走るので撮影効率が良かったのと、板橋の家から東上線で比較的容易に行かれたことで、総武本線のC57-1は梅小路に入るカマで、今後いつでも見られるだろうし、ダイヤ上効率が悪かったのと、東海道本線でも同じC57が走るのだから、近い東海道本線へ行こうと、千葉-銚子間のC571はパスしてしまったのです。
今から思うと何とももったいないことをしたと思うのですが、3つのうちどれを捨てるかという選択の中で、千葉までの往復交通費300円がもったいなかったというのが偽らざる心境でした。
今でも、当時の意思決定過程をはっきりと覚えているのですから、総武本線、成田線のC571に行かなかったのは悔やんでも悔やみきれなかったのでしょう。
八高線の話は機会があったらまた書くとして、私は10月14日の鉄道記念日に、いつものように塾へ行くカバンの中にカメラを入れて品川駅に向かいました。
当時も今も、SLが走るとなるとものすごい人でしたが、私は品川駅のSL発着番線から少し離れた東海道線の臨時列車用のホームの端で待機しました。
その時その場所を選んだ理由は、新幹線とSLのツーショットが撮りたかったからなのです。
もちろん、新幹線の時刻など調べてのことではありませんが、品川付近では当時でも上り下りを合わせると2~3分に1本ぐらい新幹線が走っていましたから、うまくすれば出会いのシーンを撮れるかもしれないと思ったわけです。
で、結果はこの通り。
[:up:] SL列車の発車直前に0系が通過していきます。
[:up:] やがてSLが発車。
[:up:] ドレーンを切りながらゆっくり、ゆっくり発車していきます。
紀伊田辺から借りてきたC577号機は、集煙装置を外してきたため、C57の特長の長い煙突が途中で切れていて、ちょっと不恰好でした。
そして、新幹線は来ませんでした。
[:up:] 最後の客車が通り過ぎた時に、0系が通過していきました。
何とも情けない瞬間です。
若い人はご存じないかもしれませんが、当時、新幹線には品川駅はなく、通過するのみ。横須賀線も東京―横浜間で東海道線と同じ線路を走っていて、品川駅の地下へ通じる入口もありませんでした。
このC57が発車して行った線路は、今の横須賀線の下り線あたりだと思います。
私は、品川でC57を見送った後、東海道線の電車に飛び乗って、横浜方面へ向かいました。
目的はもちろん、C57の列車を追いかけること。
そうすれば「1つぶで2度おいしい。」思いができると考えたからですが・・・
さあて、うまく追いついたのでしょうか。
次回を乞うご期待。
(つづく)
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