落穂拾い

ミレーの代表作に「落穂拾い」という名画があります。
皆さんもご覧になると、「ああ、この絵ね。」という絵画です。
このタイトルの落穂というのは、収穫が終わった麦畑で、貧しい婦人や子供たちが、刈取りの時にこぼれた麦を拾い集めているシーンです。
昔読んだ立原正秋さんの小説の中で、漁港で鯵や鰯を拾ってくる話が出ていました。
大漁で帰ってきた船から収穫した魚を降ろす際に、網から小魚がポロポロとこぼれ落ちる。それをおばあさんがいくつか拾って、干物を作って生計の足しにするという話です。
落穂拾いの場合は、大農園の領主様がいて、その農園で働くのは小作人です。
小作人は皆貧しく、やっとの思いで生活している。その小作人が、こぼれ落ちた麦の穂を拾って生活の足しにするわけですが、大農園の領主は、それを黙認しているのです。
漁港にあがる船からこぼれ落ちた小魚を拾って生活の足しにするのも、漁師さんたちは黙認している。
そうすることで、社会が成り立っているわけです。
大林信彦監督の映画の中で、貧しい少女が魚を買いに行くシーンが出てきます。
お金がないから魚が1匹しか買えない。
でも、彼女には兄弟がいるから、魚は1匹では足りない。
魚屋のおじさんは、そのことを知っていて、黙って魚を2匹包んでくれる。
魚屋さんだって、決して裕福な生活をしているわけじゃないけど、恩着せがましくすることなく、「どうぞ」と言って手渡すのです。
私が何を言いたいのかというと、社会には強いものと弱いものがまぎれもなく存在するけど、強いものは弱いものを助けるという構図が、最近は失われているんじゃないかということ。
助けるとまでは言わなくても、黙認することで、結局は助けていることになる。
そうやってお互いが認め合っている構図が、今の世の中ではないんじゃないか。
と思うのです。
例えば、大きな会社には大きな会社の役目があって、小さな会社には小さな会社の役割があります。
ところが、最近では大きな会社が、大きな会社の役割りだけでは飽き足らず、小さな会社の役割にまで進出し、仕事を奪っていくようなことがあるんじゃないか。
大きな会社が、本体を支える屋台骨が崩れて、いろいろなことをやっていかなければならないのなら理解できるのですが、絶好調な大きな会社が、地域で長年やってきた小さな会社の仕事を奪うようなことをしてるんじゃないか。
そして、その行為が、大きな会社ゆえに正当化されていく。
それによって、それを見習って、中ぐらいの会社も同じことをやり始めるし、子供たちもそういうもんだと思って大きくなっていく。
だとしたら、将来に向けて、この国はどうなっていくのかとても心配になるし、大きな会社は、社会に対してどういう貢献をするかを、もっときちんと考えないといけないんじゃないかと思うと、将来に対して漠然とした不安にさいなまれるのです。
イギリスで、資本家と呼ばれる人たちが、労働者をできるだけ安い賃金でこき使っていた時代がありました。
日本でも、「百姓は生かさぬように、殺さぬように。」という時代がありました。
そして、結果としてどうなったか。
資本家が安い賃金で作り上げた商品を、みんなお金を持っていないから、だれも買うことができないということに数十年かかって気づくわけです。
日本でも、「生かさぬように、殺さぬように」の江戸時代は、農業生産性が上がらないものだから、いつまでたっても蓄積ができず、ちょっと異常気象になると、すぐ食べるものがなくなって暴動が起きる。
そういう中で、指導者が交代してきたのです。
私は、大きな会社ほど、度量が深いところを見せなければなりませんし、地域に貢献するべきと考えているのですが、ミレーの「落穂拾い」のような考え方はキリスト教の精神に基づくものだから、海外では当たり前のことだけど、日本ではそういう宗教的なモラルがないから、大きな会社の経営陣も、何の疑問も抱かずに、小さな会社や個人営業の部分にまで進出し、当然のような顔をしているわけです。
だから実は、これって、とても恥ずかしいことなのです。
そんな中で、私が「すごいなあ」と思うのがJR九州という会社。
観光列車を走らせたら日本一の会社ですから、私は、いすみ鉄道の社長として、JR九州をいつも参考にしているし、JR九州にあやかりたいと思っているわけです。
(私のデスクにはJR九州のポスターが貼ってあるぐらいです。)
6月にも、観光鉄道を視察させていただきたいということで、JR九州の観光列車をいくつか乗車させていただいたわけなのですが、お金のないいすみ鉄道が、わざわざ九州まで出かけて行って、「視察させてください」、ということは、直接売り上げアップに結びつけなければなりません。
ということは、御社でやっていることをパクリますよ。と、言っていることになるのですが、JR九州の皆様方は、「どーぞ、どーぞ。」と、こういう感じなんです。
これは私から見たら、まさしく「落穂拾い」なんですね。
大きな会社が、小さな会社や個人に対して、「もって行って良いよ。」と言ってくれている。
大きな会社としては、大勢に影響ない範囲だけど、小さな会社としては、その一言で、生きていくことができるぐらいの収穫に値するわけです。
このところ、キハの部品を探しに全国を歩く乞食のような生活をしていると、本当にそう感じるわけなのです。

豊肥線の観光列車「あそボーイ」。パノラマ車両に親子向けシートなど、ファミリー向けの工夫がたくさんです。

記念写真ボード。これイイね。栗原駅長、同じの作ってください。


本家のジャズ列車「A列車で行こう」。この車内で飲んだ柑橘系ハイボールはうまかった。

浦島太郎伝説に基づく観光列車「指宿のたまてばこ」。シーズンオフなのに満員の大人気です。
いちいち細かいことを言わずにとりあえず前に進むこと。
これが九州人気質のようです。
JR九州の皆様、ありがとうございました。
オレンジ食堂を体験させていただきました肥薩おれんじ鉄道の皆様にも大変お世話になりました。
早速、レストラン・キハとして実現させていただきました。
いすみ鉄道では、「差し上げます。」と言ってJR西日本が譲渡してくれたキハ52とキハ28が今や一番の看板娘だし、JR東日本からのキハ30も大きな役割を担ってくれています。
落穂拾いの貧乏会社でも、何とか息をつないでいくことができるのも、大きな会社のおかげなんですね。
こういうことって、鉄道会社の間では、今も昔もちゃんと機能しているんだということを、皆さんも是非知っておいてください。
そして、大きな会社にお勤めの皆様方も、自分の会社の社会的な役割というのを、直接的な面だけでなく、間接的な面でも、いろいろ考えて見てくださいね。
社会というものはそうやって成り立っている。
持ちつ持たれつなんですね。
なぜなら、それは大きい会社に勤めているあなたが偉いんじゃなくて、たまたまあなたが大きい会社に勤めているというだけの話なんですから。