ハリウッドのギター職人

私が昔、アメリカにいたという話を掛須団長としていた時のこと。
「アメリカでお世話になった人は、須貝さんといって、ハリウッドでギターを作る会社をやっているんだ。」
と、私が言うと、団長が目の色を変えて、
「社長、それ、パフォーマンスの須貝さんでしょ? なんで彼のこと知っているの?」
と、言います。
「そうそう、パフォーマンスという会社だよ。私、昔、彼の家に居候してたんだよね。彼は手先が器用な人で、自分でギターを作って会社にして、いろんなミュージシャンが彼のギターを使ってるみたいだね。」
「いや、社長、その人は、社長が考えるようなそんな人じゃなくて、ギターをやる人間なら誰でも知っている憧れの神様みたいな人なんだよ。」
「ああ、そうなの? 僕は音痴だから彼がどんな人か知らないけど、そうそう、イーグルスが日本に来たとき、彼もいっしょに来て、会場の裏方で、ギターの調整なんかやってますよ、今でも。」
「だから、社長、すごい人なんだって、須貝さんは。でも、そんな人と知り合いなんて、社長もすごいよね。」
と、こんな会話で盛り上がりました。
そう、須貝さんは、今ではイーグルスをはじめ、たくさんの著名なミュージシャンが彼のギターを使うほど有名なギター会社の社長さんですが、須貝さんは、知り合いなんてもんじゃなくて、私にとっては恩人の一人。
須貝さんがいなければ今の私はなかったも同然なんです。
話は今から30年以上前の1970年代末期にさかのぼります。
私は板橋に住んでましたが、椎名町に住んでいた飛行機乗りの寺田さんという方が私をとてもかわいがってくれていて、よく家に呼んでいただいてはご飯をごちそうになったり、飛行機の話をしてくれていました。
当時の私は、国鉄に入ることができず、「新幹線がだめなら飛行機だ!」と思ってみたものの、家には航空大学に進学させてくれるだけの財力もなく、どうしてよいのか悩んでいたというか、くすぶっていた時期で、時折調布の飛行場に出かけては、「飛行機に乗りたいなあ。」と思っていました。そんな時、ひょんなことから寺田さんと知り合い、意気投合して可愛がってもらえるようになりました。
私が、
「飛行機に乗る仕事がしたい。でも、制服を着てジェット機に乗るような仕事じゃなくて、ヘリコプターで田んぼに農薬をまくような、そんな仕事がしたいんです。」
と言うと、寺田さんは目を細めながら、
「おぬしも、魔物に憑かれたようだなあ。いいぞ、飛行機は。」と言います。
寺田さんは航空会社のパイロットではなくて、自分で会社を経営しながら気が向いたときに気が向いたところを飛ぶような、気ままな人生を送っていらっしゃって、そうです、年配の方なら石原裕次郎が小型機のパイロットの役をやる映画をご存じだと思いますが、実際の撮影では、石原裕次郎の代わりにスタントマンとして寺田さんが飛行機に乗り込んで、低空飛行やアクロバットシーンなどを撮影したといえばお分かりになる方もいらっしゃるでしょうが、そんなパイロットだったのです。
私は寺田さんがしてくれる飛行機の話をいつもいつも熱心に耳を傾けていました。
あるとき、寺田さんが「おぬし、アメリカに渡って飛行機に乗ってる風変わりな人間がいるから、彼のところにしばらく行って来いよ。」と言います。
私は、寺田さんに対して、「この人の言うことは何でも従ってみよう。」という気持ちになっていましたから、アメリカのその人がどんな人かもわからないけど、寺田さんが言うならアメリカへ行こう、と思い、学校があるにもかかわらず、「まあ、学校はいいや」とロサンジェルスに向かったわけです。
そして、アメリカで私を迎えてくれたのが須貝さんだったわけです。
当時、須貝さんは30代半ばで、飛行機の仕事に就きたいと思って渡米したものの、なかなか飛行機の仕事がなく、ギター会社を設立してお金を稼いで、中古の小型機を購入して時間を見つけては飛んでいた時代でしたが、寺田さんから、
「少し変わったやつを預かってくれないか。」ということで、私のことを引き受けてくれました。
寺田さんは私にも須貝さんにも「変わったやつがいる」と言っていたのですが、二人に共通していたのは、「飛行機が好きな若いやつを育てていく」という心意気で、当時の私は彼らのお眼鏡にかなったのか、仲間に入れてもらったわけです。
で、私はB-2ビザしか持っていないのにもかかわらず、入国審査官から6か月の滞在許可をもらって、ロサンジェルスでの生活が始まったのです。
その後、操縦訓練を続け資格を取った私に須貝さんは「アメリカでパイロットになるんなら、仕事はいろいろ紹介するよ。」とアメリカに残ることを勧めてくれたのですが、血気盛んな当時の私は、女性問題を起こして今のカミさんと所帯を持つことになり、(結婚して今も続いているわけですから、結果として女性問題ではないといえますが)、残念ながら飛行機をあきらめて帰国して、さらなる貧乏生活が始まったわけです。
でも、路頭に迷いながらも飛行機の夢は何とか持ち続け、操縦士ではありませんでしたが、航空会社に入って、成田空港で勤務することができました。
私が空港に勤務している間も、日本にいらっしゃる度に須貝さんは私に声をかけてくれて、「どう、元気でやってる?」 「鳥塚くん立派になったねえ。」と優しく励まし続けてくれました。
須貝さんも私も職業パイロットにはなれませんでしたが、お互いに別の世界を歩んできているわけです。
その須貝さんに昨夜、実に30年ぶりでアメリカでお会いして、ディナーをごちそうになり、昔話に花を咲かせました。
私は所帯を持つに際して、うわっついた気持ではだめだからと飛行機に関する写真や本などをすべて封印しましたので、同行した私の3男は、私がアメリカで須貝さんの家に居候をしながら飛行機に乗っていたなどということは全く知らないわけですが、須貝さんがアルバムをいろいろ見せてくれて、二人で懐かしがっているシーンを横で見てて、信じられないという表情でした。
知らなかった自分のオヤジの若いころを知る。
まあ、これが教育というものかもしれませんが。
「鳥塚くん、あれからもう30年以上も月日が経ってしまったなんて信じられないねえ。でも、この間、日本に行ったとき車の中でラジオを聴いていたら鳥塚くんが出ていてね、ああ、ローカル線で頑張ってるんだ。って思ったらとてもうれしかったよ。」
須貝さんがそうおっしゃっていただいたのは私もうれしく思いました。
私を見込んで可愛がって育ててくれた寺田さんをはじめ、アメリカ時代にお世話になった皆様方が、何も恩返しができないまますでに他界されてしまい、私としては悔やんでも悔やみきれないと日々感じているのですが、寺田さんなら
「おぬし、ずいぶんがんばってるじゃないか。俺が見込んだ通り、活躍する人間になったなあ。」
と、きっとそう言ってくれるんじゃないかなあ、と思うことにしています。
須貝さんや寺田さんから教わった一番大事なこと、
それは、可能性のある若い人間を育てていくということ。
去年の10月に大原で 「能楽とオペラの協演 in 夷隅」 を行ったり、国吉で雪まつりをやったりすることは、将来のある若い人たちにモチベーションを持ってもらいたいという動機からですが、今、私がやらなければならないのは、寺田さん、須貝さんをはじめ、たくさんの人々から私が若い時に受けた御恩を、次の世代を担う若い皆様方へお返しすることなんじゃないかなあ、とそう思うのです。
須貝さん、ありがとうございました。
いつまでもお元気でご活躍ください。
そして、今度イーグルスが日本に来るときには、帰国前日の追加公演を国吉の原っぱでやってください。
嬬恋のように。
皆は 「ホテル・カリフォルニア」というでしょうが、
私はイーグルスといえば 「テキーラ・サンライズ」です。
ぜひ、よろしくお願いいたします。






須貝さんのギター会社 ハリウッドのパフォーマンスギターです。
私にはよくわかりませんが、見る人が見たら、すごいギターがたくさん並んでいるんでしょうね。
C57とキハ17とキハ28が並んでいるぐらいすごいのかもしれません。
若い技術者に技術指導をする須貝さんです。

ディナーを終わって記念撮影。
右から私の息子の周と須貝さんの息子さんのケン君。
年が近い2人はすぐに仲良しになっていました。
若いってすごいですね。
あのころはこの2人は影も形もなかったし、30年後は我々が影も形もなくなっているわけですから、人生って面白いと思います。
須貝さんと私の30年前のツーショットは、封印したアルバムに眠っているはずですので、今度、その封印を解いてみましょうか。
音痴の私がいすみ鉄道で掛須団長と一緒に、フォークソング列車など音楽関係のイベントをやっている起源はきっと須貝さんの影響だと思います。
今頃いすみ鉄道で掛須団長が主催するジャズ列車が走っているころ。
団長、地球の反対側から須貝さんと一緒に応援してますよ。
いすみ鉄道はインターナショナルなローカル線だ、ということはこういうことなのです。
皆様、どうぞよろしくお願いいたします。
そうそう、団長。
須貝さんに団長の話をしたらとても喜んでくれて、お土産に須貝さんのギター会社のTシャツくれました。
今度お渡ししますので、楽しみに待っていてくださいね。
須貝さんが経営するパフォーマンスギターのホームページはこちら。
http://www.performanceguitar.com/index.html
全部英語ですが、興味のある方はご訪問ください。
私の旧知の恩人です。