大学4年の3男が経済新聞を読んでいる。
1年半も就職活動をしてやっと就職先が決まったのはラッキーで、同級生の中にはまだまだ先が見えない人が多いらしい。
都の西北ですらそういう状況なのだから、今の若い人たちはさぞかし大変だろうなあ・・・とは思わない。
なぜなら私の時も大変だったから。
いやいや、私の時は女房も子供もいたから、死にもの狂いだった。
「俺は苦労したんだ。」というようになるとだいたいオヤジからジジイに移行する時期に差し掛かったのかもしれないが、私は「大変だった。」とは思うけど、「苦労した。」とは思わない。
とりあえず食えて、ここまで繁殖してきたから、人類としての使命の一部は達成できたわけだし、ということは、幸せなのだから。
ところで、私は経済新聞は読まないことにしている。
読むとしても大きな見出しだけ。
なぜなら、経済新聞には未来は書いていないから。
経済新聞に書いてあることはすべて過去のことで、イベントの告知以外にはこれから何が起こるかは書いていない。
株価が明日どうなるか、円が明日どうなるか、経済新聞は教えてくれない。
「新聞なんだからそんなことはあたりまえじゃないか。」という人がいると思うけど、ここが経済新聞の落とし穴で、経済新聞を読んでいる人は、「俺は経済新聞を読んでいるんだ」ということで満足してしまう。
特に大学生は経済新聞を読んでいる自分に満足してしまう傾向がある。
自分が大学生の時も周りはみんな経済新聞を読んでいて、「お前、経済新聞ぐらい読めよ!」と私はからかわれた。
私はそういう仲間の新聞を取り上げて読むことはあっても、自分から買うようなことはしなかった。
そんなお金があるぐらいなら学食へ行ってかけそばを食べる方がとりああえず先決だったから。
20代の私を知っている人は、「あいつはいつも金がなかった。」と覚えている。
先輩に飲みにつれて行ってもらっては奢ってもらっていた。
飲み屋でも会社の中でも不動産と株の話ばかり。
「今買っておかないと、たいへんなことになるぞ。」ってみんな言っていた。
で、30過ぎたころにバブルが崩壊して、日本全体が引っくり返るようなことになった。
一番被害を受けたのが経済新聞を読んでいた人たち。
株も不動産にも縁がなかった私は全くの無傷だった。
そう、経済新聞には明日のことは書いていないのです。
でも、経済新聞を読んでいるとあたかも昨日の延長線上に明日があるような、読んでいるから自分は大丈夫だみたいな、そんな安心感や錯覚にとらわれる。
ここが一番危険なところなのだ。
ところが、他の新聞になるとそうじゃないから不思議だ。
小さなローカル紙になればなるほど、情報として「へえ、昨日はこんなことがあったんだ。」と思いはするけど、「この新聞さえ読んでいれば大丈夫だ。」何て誰も思わない。
そういう緊張感というか、期待しない純粋さというか、新聞は情報源としてのみ活用するようにして、やっぱり将来のことは自分で考えるようにすれば、新聞の中にだってたくさんヒントがあるし、「ここにはお金がたくさん落ちてるなあ。」と思うようになる。
大学生にそこまで求めるのは無理かもしれないけれど、少なくとも「経済新聞を読んでいる自分に惚れぼれするな。」とは言いたい。
新聞は読むものであって、新聞に読まれるな。
これを理解して初めて経済新聞の読者になれるわけです。
例えば本日の1面。
「デジカメの生産台数大幅減」とある。
これをどう読むか。
銀塩(フィルム)からデジカメになって、スマホへ移行が進むとどうなるか。
2世代を経てフィルムは完全に消えるか、それとも2世代を経てフィルム回帰へ行くか。未来はどちらかにあるし、両方かもしれない。
企業が液晶の大型化、高画質化を追い求めてきたのにユーザーがスマホで動画を見るようになるということは、ユーザーは高画質化を求めていないということがわかるわけで、その延長線上に将来がある。
だから技術自慢の企業が傾いたりする。
とりあえずスマホサイズで見て、気に入ったものだけ大画面高画質を求めるかもしれない。
などなど、いろいろ考えが始まるわけです。
・・・
やっぱりジジイ化している、という自分の近未来予測。
だから言ってるでしょう。
皆さん、千葉日報を読みましょう! って。
そうすれば、一生懸命考えるようになりますから。
先日、講演先で、「明日に何が起きるか不安ではないですか?」
こう聞かれました。
私が航空会社を辞めて潰れそうなローカル線に入ったから。
私はこう答えました。
「明日に何が起こるか、あなたはわくわくしませんか?」
今日は獨協大学へ参ります。
どんな学生たちに会えるか、わくわくです。
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