香港での入院 その2

連れて行かれた病院は、香港に拠点を置くいろいろな企業が契約しているような大きな病院で、待合室からは英語、中国語に混じって、お母さんに連れられた小さな女の子の話す日本語も聞こえてきます。
私は、ひんやりとした部屋の手術台のようなところにあおむけに寝かされました。
目の前の頭の上にはたくさんの電灯が一つになった手術の時のドラマなんかで見るライトがありましたから、間違いなく手術台だと思います。
20分~30分待たされたでしょうか。
なんで手術台なんだろうか?
香港(中国)では検査のためにお腹を切るのだろうか?
などと不安になっていたところですが、見ると部屋の中に蚊が1匹飛んでいます。
その蚊が気になって、お腹を切られるかもしれない不安を忘れて、蚊を目で追っていました。
何しろ場所は香港ですから、こんなところで蚊にでも刺されようものなら、また変な病気になる、と思うと気が気じゃないわけです。
そうこうしている間に、廊下の向こうからコツコツと足音が近づいてきて、ドクターがやってきました。
「日本人ですか? 英語で大丈夫ですか?」
「ええ、かまいません。」
ドクターは東洋人でしたが、白衣は来ているものの、その下にはワイシャツにネクタイをして、スラックスに革靴の姿。
ペタペタとサンダルのようなものをはいている日本のドクターから見ると、なんだかビジネスマンのような感じです。
「何を食べましたか?」
「ホテルのバフェで、サーモンの刺身を食べました。」
「ああ。それかなあ」
「でも、同僚も同じものを食べたんです。彼らは何でもなくて、今日の飛行機で東京へ帰りました。」
私からいろいろ話を聞き出したドクターは、
「とりあえず、しばらく入院だけど、大丈夫か?」
と言います。
「しばらっくって、どれぐらい。」
「一週間かな。」
「わかりました」
こんなやり取りがあって、検便とか注射、点滴はされたものの、私は手術台でお腹を切られることもなく病室に運ばれました。
病室に入ると少し安心したのか、「あっ、会社に電話をしなければ」ということを思い出しました。
看護師さんに、「電話はどこ?」って聞くと、
「あなた、携帯持ってないの?」と言う。
当時の携帯は日本国内しか使えないものでしたので、もってはいるものの何の役にも立ちません。
ところが、気が付くと病室や廊下などで入院患者も見舞いの人も、皆携帯電話をじゃんじゃんかけています。
看護師さんから「携帯でかけろ」と言われるのですから、日本で「病院内では携帯電話は禁止」ということの根拠はいったい何なのだ、と常識を覆されるような光景です。
携帯電話が使えない私に、看護師さんは廊下の向こうにあるナースステーションから延々と長いコードでつながった電話を持ってきてくれ、それで私は香港空港の同僚に電話をし、いきさつを話し、日本にも連絡を入れてもらいました。
翌日には、その病院に勤務する日本人の通訳の女性が私の病室にドクターと一緒にやってきました。
その女性は、暇だといけないから数冊の日本の週刊誌を持ってきてくれたのですが、どれも半年以上前のもの。そして、私がドクターと普通に英語で会話している姿を見て、
「あなたには私は必要ないみたいね」と言って、それっきり病室には来てくれませんでした。
私は、点滴で動けないし、誰も話し相手はなく、することがないので、昼間は病室にあるテレビをボーッと見つめ、夜は部屋からの夜景を眺めるだけの、何もすることがない時間を過ごしていました。
三日ほどたって、ドクターが様子を見に来ました。
「具合はどうだ?」
「下痢は止まりました。」
「帰りたいか?」
「帰れるのならば帰りたい」
「じゃあ、明日退院していいよ。」
ドクターの説明では、チフスとかコレラとかの伝染病ではなく、日本人が耐性を持っていないような細菌がいて、それにやられたのだろうということ。
今思えば、O157とかO111とか、いろいろあるのがわかりますが、そのころはそんな常識がありませんでしたから、何だか釈然としないまま、数日の入院の後、無事に日本に帰国したのです。
あとでわかったことですが、日本に先に帰り着いた2人の同僚は、成田について私が香港の病院に入院したことを聞き、苦しんでいる私を見捨てて香港に置いてきてしまったことにうろたえと、後悔と、懺悔の念で、焦りまくったようでした。
(心配をかけて申し訳ございませんでした。)
香港島の山の中腹にある病室からは、毎晩香港の夜景がとてもきれいに見えて、中でも1つの高層ビルがレインボーカラーに次々と色が変わる光景を夜通し見ていましたが、今でも時々、テレビで香港の夜景でそのビルが映るたびに、もう海外出張には行きたくない、という気持ちを再確認しているのです。
だから、私は去年失効したパスポートも更新せず、今では国内オンリーの人間になっているのです。