ボクの1974年

本日は昨日の続き。
1974年の飛行機の話です。

昨日、「時刻表を読み解く」という話をさせていただきましたが、読み解くとはどういうことかお話しましょう。

▲これは昭和53年(1978年)の湯前線(今のくま川鉄道)の時刻表です。

人吉を朝5:40に出る321Dという列車がありますが、この列車が人吉に到着するのが6:22。
折り返し湯前発6:34の322Dとなって人吉に戻ります。
人吉からの列車が湯前に到着すると、その列車が折り返しになるというわかりやすいダイヤです。
夕方18:29に人吉を出る327Dという列車はグリーン車が付いています。
始発駅は門司港となっていますから、この列車は急行「くまがわ」のくずれですね。
門司港から約5時間かけて走ってきて、そのまま湯前まで行っていたのでしょう。だからグリーン車が連結されている。
そしてその編成が湯前ですぐに折り返して人吉に戻っています。
330Dですね。

330Dとしてグリーン車を連結した編成は人吉に戻るとそのまま1泊停泊して、翌朝の急行「くまがわ」になって7:45に人吉を出て、門司港に12:40に到着。
そして13:25発の急行「くまがわ」で折り返して、また人吉に戻ってくるという行路になっています。

こちらは同じ1978年の会津線(今の会津鉄道)の時刻表です。
会津若松を5:33に出る始発列車が会津滝ノ原(今の会津高原尾瀬口)に着くのは8:01です。
この列車は折り返し8:32発になって会津若松に戻るのですが、実はその前に7:06発の会津若松行があります。

ではこの列車に使う車両はどうしていたのかというと、前の晩19:46に会津滝ノ原に到着する列車があります。
折り返しとなる最終列車はすでに発車した後ですので、この列車が一晩停泊して翌朝の始発になることがわかります。

同様に会津田島を6:20に出る仙台行急行「いなわしろ1号」というのも、前の晩22:17に仙台から到着した急行「いなわしろ2号」が一晩停泊して戻っていることがわかります。

時刻表を読み解くとはすなわちこういうことでありまして、何も情報が手に入らない時代はこのようにして想像力豊かに考えていたわけで、1974年当時の私は中学2年生ではありますが、すでにこのような域には達していたのであります。

そういう私に航空時刻表という新しい世界がやってきました。

昨日お見せした1974年の全日空の時刻表です。

中を開いてみましょう。
八丈島行の飛行機が目に入ります。
821・Oというのは821便オリンピアということで、オリンピアとはYS11のこと。昭和39年の東京オリンピックの年に聖火を運んだということでオリンピアという名前が付けられました。

821便は羽田を7:45に出て八丈島に8:45に到着します。
そして折り返し822便となって9:10に羽田に向けて出発します。
折り返しのための整備時間は25分間ですから、小さい飛行機は忙しいですね。
次の827便は羽田10:55発。そして八丈島に11:55に到着します。
そして25分の折り返し時間で12:20に828便として八丈島を出発しています。

でも、八丈島から羽田への第2便は9:40発の824便がありますね。
羽田から2本しか飛んでいないのに、八丈島から羽田への便は3本目です。
おかしいですよね。

で、よく見ていただくと名古屋から八丈島へ飛んでくる便があります。
名古屋を8:00に出て八丈島に9:15に到着する325便です。
この便がきっかり25分の駐機時間で824便となって羽田へ行ってることがわかります。

同様に羽田を13:35に出る835便が八丈島に14:35に到着。
25分の駐機時間で15:00発の326便となって名古屋へ向かっています。

どうですか?
読み解けますか?

福井空港に注目してください。
今、福井空港は定期便が飛んでいませんが、1974年当時は定期便がありました。
1日到着便1本、出発便1本です。
その到着便というのが何と小松からの362便。
小松から福井まで定期便があったことになります。
飛行時間は20分。
運賃はなんと1400円です。
昨日お話した空席待ちのスカイメイトであれば半額ですから700円。
700円で飛行機に乗れたのです。
そしてさらに驚くことは、小松から福井に到着した飛行機(YS11)は25分の駐機時間で名古屋へ向けて飛んでいきます。
この362便は小松発、福井経由の名古屋行。
逆の名古屋発福井経由小松行という便はありません。

つまりどういうことかというと、小松の人が飛行機で福井に飛んで来たら、飛行機では帰れないということになるのです。
同様に福井の人が飛行機で名古屋へ行ったら、もう飛行機で戻る便はありません。
何だか面白いでしょう。

小松-福井なんて飛行機で移動する人はまずいなかったでしょうから、名古屋まで行く人をのぞけば64人乗りのYS11が満席になるはずはありません。
経由便というのは小松からのお客様と福井からのお客様を座席配分して販売していましたから、小松-福井間であれば、そんな客はいないでしょうから常に空席があったことになります。
中学2年の私は700円で飛行機に乗れるぞと意気込んでみましたが、しょせんは机上の空想旅行でした。

同じ1974年の東京-札幌便。
すべての便がB2、すなわちB727で運航されています。
まだトライスター導入前ですね。
B727は160人乗りの飛行機です。
その飛行機が1日12往復しているということは、全日空だけで約4000人の人が移動していたことになります。これに日本航空や東亜国内航空を加えると1974年の時点で1日8000人以上の人が東京-札幌間を飛行機で移動していたことになります。
上野から北海道連絡の特急列車は「はつかり」が5本、「ゆうづる」が3本、「はくつる」が1本でしたが、1974年の時点で航空輸送は鉄道を超えていたことになりますね。
50年前ですが、この時すでに鉄道の時代は終わりを告げていたのです。

隣の函館便を見ると機種の欄にB1とあるのに気が付きます。
B2はB727、B3はB737。ではB1とは一体なんの飛行機でしょうか?

実はB1もボーイング727なんです。
ボーイング727には‐100と‐200の2種類があって、‐100は約120人乗り、‐200はストレッチ型で約160人乗り。
当時の全日空にはB727が2種類飛んでいたことがわかります。

それが翌年、1975年の3月になると、

東京-札幌間にはTR:トライスター(300人乗り)が導入されています。
そして函館便からB1は無くなり、B3に変わっています。
全日空のB727-100は1974年で退役しているんですね。

もう一つ気が付くことがあります。
それは値段です。

東京-札幌が1974年は13900円でしたが、翌1975年になると18200円になっています。
大幅な値上げですね。
札幌便だけじゃなくて、その他の路線もすべて値上がりしています。
すごい値上げ率でしょう。

いったい何があったのでしょうか?

実は1973年の年末にオイルショックという出来事があって、1974年にはすべてのものが大幅に値上がりしました。
家庭の奥様達がトイレットペーパーを買い占めたのもこの年のこと。世界中の経済状況が激変したのが1974年なのです。

おもしろいでしょう?

中学2年生の私は、こうやって時刻表を読み解いていたのでありまして、この年をきっかけに私は飛行機の世界にのめり込んでいくことになって、50歳手前まで飛行機にどっぷりつかる人生を歩むことになったのです。

だから1974年という年は、私にとてもとても大切な年であることはもちろんですが、世界経済にとっても激動の年であったのであります。

今、物価がどんどん上がってきていますよね。
数年前と比べるとものすごい上昇と言われていますが、昭和の時代を生きてきた人間にとってみれば、このぐらいの物価上昇はあまり驚かないのです。
何しろ、13000円だった物が次の年には18000円になるなんて、昭和の時代はふつうのことだったのですから。

本日も1974年の時刻表のお話でした。

さあ皆さん、明日からまたお仕事頑張りましょう。
そうすればまた来週も3連休でっせ。

ワクワク