お墓参りの週末

いやぁ~、暑いですねえ。

この暑い中、雑司が谷へお墓参りに行きました。

広大な墓地の中はビル街よりも2~3度低く感じるんですが、それでも汗だくです。

私は父親と別れたのが早かったので、子供の頃に聞いた話でうろ覚えなんですが、なぜかここにはお墓が2つ並んでいて、うちのお墓は左側の古い方だという。

江戸時代は庶民には苗字が許されてなかったので「荒久」というのが屋号だそうで、荒川の上流、秩父の出だから荒久。その証拠に荒川をさかのぼった埼玉県の寄居には鳥塚という苗字が鈴木、佐藤、田中と同じぐらいいる。
という話を子供の頃に聞きました。

この写真を撮った後で、一応右側のお墓もきれいにしてお線香とお水をあげてきました。
こちらは平のおじさんという人と、角館のおばさんという人の家の墓らしい。
会ったことはないですけど、分家でしょうかね。
これも子供のころの記憶なんですが、うちではお花は飾らないので、いつもシキビだけなのです。

去年の夏以来なんですが、卒塔婆が新しく立っていまして、令和6年3月となっていました。
戒名を見るとオヤジの姉2人でしたので、これで5人いた父親の兄弟姉妹は全員亡くなったと知りました。
もう何十年も親戚とはお付き合いしていませんが、お墓には定期的に来ております。

子供のころお世話になったおばあちゃん、おじさん、おばさんたちが皆ここに入っているので、「新しい仕事になりました」という報告と、「頑張ってるんだから、しっかり応援してくださいよ。」とお願いしてきました。

しかし、いつも来るたびに思うのですが、うちは旧家でも何でもないのに墓石には恐ろしい年号が刻んであるのです。
鉄道開業の明治5年が152年前ですが、天明とか寛政とか、いったいいつの話ですか?
寛政の改革って松平定信ですよね。
白河の。
天明の大飢饉というのも歴史で習いましたよね。
200年とか経ってませんか?

そして私は思うのです。
ここには入りたくないなあと。

やがて行く道でありまして、それもそう遠くない未来の話になってきたことはうすうす感じてはおりますが、この中には入りたくないなあ。

静岡では蝉がシャーシャー鳴いていますが、ここではミンミンでした。

ひまわり、夕立、セミの声

東京には姉さん先生はいませんでした。