昨日の続き
親の言うことを聞かず、学生結婚などをしてしまった私は、所帯を持ってもピーピーでした。
ピーピーと言うのはお腹が下っているという意味ではなく、もちろんお腹の調子もあまりよくはありませんでしたが、金がないという意味の昭和の時代の言葉です。
所帯を持っても金に困っていたということです。
給料16万円で家賃38000円のアパートに住んでいましたが、学習塾に勤めて夜勤や残業が多くなって少し手取りが良くなってきたのと、2人目の子供が生まれるというので、風呂付の2DK、7万円の部屋に引っ越しましたから、相変わらず生活は苦しい。
東京の下町でしたから近所に工場がたくさんあって、カミさんはそのうちの1件、縫製工場から仕事をもらって内職をしていました。
上の子を自転車に乗せて、下の子をおんぶして買い物に行く。
見るからに貧乏でしょう。
そんな時に航空会社に就職することができました。
これで少しは生活が上向きになるだろうかな?
そう思ったんですが、学習塾よりも給料が下がっちゃったので、相変わらず内職。
私も家に帰ると手伝って、一緒に内職やって、自転車の前と後ろに品物を積んで工場まで届けに行って、次の品物をもらって来るという毎日です。
世の中はバブルに向かっている最中で、皆ちゃらちゃら遊んでいる雰囲気。
マイカー当たり前、海外旅行当たり前、早く買わないとマンションも買えなくなるという時代でした。
そんなある日、会社の労働組合のアンケートがあって、「あなたの生活は満足していますか?」というようなアンケートでした。
読んでいくと、「あなたは自分の給料で生活をまかなえていますか?」と書いてある。
「はい、いいえ」があって、「いいえ」を選択したら次の質問。
「給料で不足する分をどうやって補っていますか?」
そう書いてあるので私は「妻の内職」と書きました。
しばらくたって労働組合の集会の日、支部長という職場の代表がみんなの前で、「うそだと思うんだけど、うちの会社で奥さんの内職で生計を補っている人がいる。」って言うんですよ。
みんなざわついてね。
何しろスチュワーデスが200人ぐらいいる会社ですから。
場所は東京駅の横にあった国労会館の中にある組合の集会場。
委員長が「これを書いたのはどなたですか?」って言うから、仕方なく立ち上がって、「はい、私です。」って答えたんです。
振り返った皆さんは驚いたり軽蔑の目つきだったり。
そうしたら委員長が、「鳥塚君、君のような人を組合は待っていたんだ。ぜひ本部役員になってくれたまえ。」
私は突然のことなので返事をしなかったんです。
そうしたら数日後、職場での出来事。
ロンドンから到着した飛行機が、お客様が全部降りて、機内清掃をして、折り返し便の準備中、私は飛行機の中に準備状況を確認に行ったのです。
誰もいないジャンボジェット。
通路を後ろの方へ進んでいくと、奥のトイレの所から整備士のおじさんが出てきた。
「こんにちは。お疲れ様です。」
と挨拶するとニヤニヤしてる。
「組合のことだけどさあ。」とおじさん。
後ろを振り返ると、ケータリング課のおじさんがニヤニヤと立ちふさがっていて、「役員やってくれるよね。」
通路挟み撃ちで逃げ場がない。
反対側の通路にはいつの間にか貨物課のおじさんが。
私30歳、おじさんたち50代後半。
ほとんどリンチですよ。
「鳥塚君、君じゃなければできないんだよ。よろしくね。」
ということで、私は組合の役員にさせられたのでありました。
先日、会社のOB会に呼ばれて、久しぶりに懐かしい皆様方にお会いしましたが、私を挟み撃ちにした二人は来てませんでした。
このコロナの間に9名がお亡くなりになられたと言われていましたが、その中のお一人にお名前がありました。
今でこそ私は社長をさせていただいていますが、20代、30代の頃はペーペーでしたので、こんなもんですよ。
スチュワーデスの人たちは良い時代に入社された方々は労働貴族と呼ばれる人たちで、ベンツやジャガーが当たり前でしたし、おじさんたちもデカい家に住んでいましたけど、アパート住まいでやっと買った中古のサニーに乗っている私が、何で皆様方の賃金交渉をしなくてはならないのでしょうか? という疑問を持ちつつ、労働組合の副委員長と書記長を合計6年間やりました。
でもそういう役目をさせていただいて、私は気づいたのです。
「物価に追いつく賃金はない」ということを。
つまり、サラリーマンをやっている限りは豊かにはなれない。
まして我が家のように次から次に子供が生まれるような家は。
「鳥塚の所は貧乏だから子だくさんなんだ。」と言われてましたが、とてもじゃないけど会社からもらうサラリーだけではやって行かれない。
ということに気が付いたのであります。
そして、世の中にはそういう構造がある。
だとすればどうやってその構造を抜け出すかを考えないといけない。
幸いにして外資系企業でしたから、起業も自由にできる。
だったら起業するしかない。
ということで、私は30年も前に有限会社を立ち上げたのであります。
会社員であり、組合幹部でありますが、家に帰ると経営者なのです。
そういう3つの草鞋を履いて、寸暇も惜しんで仕事に明け暮れたのが私の30代。
会社をやっていれば当然決算もあるし会計処理もある。
税金の知識も身につくし、どうしたら税金が安くなるかということも肌感覚で覚える。
片や、会社では役職が上がっていき、課長になって、部長になって。
でも、家に帰れば社長ですから、まったく別の見方をするのが日常となったのであります。
今思えば、そういう両方の経験を同時進行でやって来たから、鉄道会社の社長業もすんなりと入ることができたのかもしれません。
そう考えると、若いころ「あのくそジジイ」と思っていた20歳、30歳年の離れた先輩たちにも感謝しなければなりません。
今、多分20代から30代前半ぐらいの若い人たちは同じように上司を「くそジジイ」と思っているでしょう。
なぜなら、それが世の常ですから。
でも、そういう反骨精神というのは、ないよりはあった方が私は良いと思います。
問題は、その反骨精神から自分自身で何を生み出すかということですから、ブツブツ文句を言っている暇があったら、世の中の構造をよく勉強して、前に進む努力をした方が良いと、私は思います。
少なくとも私はそうやって来て、今ここにたどり着いているわけで、ありがたいことに自分の歩んできた道を振り返ると、後悔はしておりませんから。
当時の私がいつもカミさんに言っていた言葉
「現在窮乏、将来有望」
この言葉を若い皆様方にも捧げたいと思います。
▲27歳。
子供を連れて青春18きっぷで乗り鉄するのが唯一の楽しみだったころ。
▲木原線大原
この子も40を越え、娘(孫)がこの春高校生になった。
すでに鬼籍に入られた昭和の頃のくそジジイの皆様方が、今の私を見たらどう思うのでしょうか。
今、私たちのことをくそジジイと思っている若い人たちが、将来課長になって、部長になって、社長になった時の姿を、私も草葉の陰から見ることを今から楽しみにしております。
現在窮乏、将来有望ですからね。
夢と希望を持って行きましょう。
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