流れ星

東京の鉄道少年だった私は、小学生、中学生の頃、代々木の塾の帰りに山手線を大回りして東京駅に寝台特急を見に行きました。

当時は今思えば寝台特急をはじめとする国鉄の夜行列車が一番賑やかだった時代かもしれません。

日本の国内線にB-747ジャンボジェットが就航したのが確か昭和48年ごろだったと思いますが、その時私は中学1年生。当時のジャンボジェットはSRといって、できるだけ座席を多く設置したアコモデーションになっていて、国際線の標準が360人乗りだった同じ機体に498人を詰め込んだのが日本航空のジャンボSRでした。

そういうジャンボジェットが飛び始めていたということは、すでに航空の大量輸送化、大衆化というのが始まっていたということは明らかなんですが、当時の日本人は、特に地方の人たちは飛行機とは無縁の生活でしたし、そもそも飛行機という選択肢がありませんから、昭和48年当時のブルートレインは寝台券が入手できない「走るホテル」だったのです。

そんなころ、ガキだった私は東京駅を次々に発車していくブルートレインを見送りながら、鹿児島、熊本、長崎、宮崎、山陰といった、また見ぬ遠い土地に思いを馳せることしかできませんでした。

今なら日帰りで行かれるようなところが、当時は遠い遠い土地だったのです。
そして、その遠い遠い土地には、都落ちした蒸気機関車が煙を吐いて走っていましたから、東京のガキとしては、遠い彼の地が憧れの場所になったのです。

なかなか行くことはできず、そうこうしているうちに蒸気機関車も全部なくなってしまいましたから、悔やんでも悔やみきれない悔しくて悲しい気持ちを味わったのですが、今思えば、ガキの頃に、そういう「思いを馳せる」ことができたということは、その後の人生を悔いの無いように過ごそうというモチベーションにつながったのだと思います。

さて、なぜこんな話をするかというと、今、東京に来ておりまして、今日、東海道線の電車から並走する山手線を眺めていた時に、思い出したからです。

あの頃の私は、山手線の窓から並走するブルートレインを見ながら、「いいなあ」「いつか乗ってみたいなあ。」と思っていたことを。

たぶんひと駅間ぐらいの時間だと思いますが、山手線と並走するブルートレインの窓にはくつろぐお客さんの姿があって、食堂車ではお姉さんたちが開店の準備中。
そういう列車を見送りながら、いつかは乗ってみたいと思っていました。

大人になってからその思いはかなって、そうですね、東京発のブルートレインは20回ぐらい乗ったかな。

あさかぜ・はやぶさ・富士・さくら・出雲。

食堂車は高くて乗れなかったけど、その高い食堂車に乗れるような身分になった時にはもうすでに食堂車は無くなっていました。

でも、B寝台から始まって、プルマンのA寝台や個室にも乗りましたし、うちの子供たちも上3人は一緒に寝台で旅行をした経験があります。

そんなことを考えていたら、このあいだうちの若いスタッフが、「夜行列車に乗ったことがない。」というじゃないですか。

だから、すぐに、「乗ってこい!」という業務命令を出しました。
業務出張です。

体験して来い! とね。

なぜならば、トキ鉄は今どき夜行列車を運転している会社なんですから。

山手線と並走した東海道線の電車は、今度は田町の車庫の横を通り過ぎました。
そこにはこれから旅に出る寝台特急がスタンバイしていました。

おぉ、いいねえ。
たまには乗りたいな。

そういえば、寝台特急ってな流れ星のマークがついていましたよね。

出入り口のところに星のマークがあって、星1つは「客車3段式寝台」、星2つは「電車寝台」、星3つは「客車2段式寝台」。
星の数でランクが決まるのは今でこそレストランなんかで見かけますが、3段式寝台が残っていたということは昭和50年代でしょうか。
その当時から星の数でグレードを表現するって、いったい国鉄の誰が考えたんでしょうね。
なかなか最先端だったような気がします。

ただ、寝台幅70センチの2段式B寝台車が3つ星というのは、なんだかな~ですが、硬いボックス座席に満席状態で運ばれて行くことを考えたら、横になって旅ができるというのは、それだけでありがたいことだったのだろうと、昭和の日本の生活水準を経験してきた身としては、今はただただ懐かしく思うのであります。

私が若者たちに夜行列車を体験していただきたいと思うのは、おじさんになった時に、懐かしいなあと思える材料が1つでも多くあった方が、人生は豊かになると考えるからかもしれません。

2月11日のぶら鳥夜行列車編。まだ数席空席があるようですので、ぜひご乗車してみてください。
冬の時期の夜行は最高ですよ。