昨日は会津若松で会議がありまして、1泊して只見線回りで帰ってこようと思っていましたが、会津若松のホテルが取れない。
郡山のホテルも取れない。
取れるんだけど、1泊5~6000円の所が1万円越えなのでやめておいて、千葉に戻りました。
一夜明けて、そういえばお彼岸か、と気づきました。
この「気づく」というのが結構大事でして、ご先祖様からのメッセージかも知れない。
確かにお彼岸にきちんとお参りするどころか、かなりしばらくお墓参りに行っていない。
数日前にお友達の半野久光さんがFacebookに昭和の都電の写真をUPしていて、それを見て「そうだ、うちのお墓も都電に乗って行ったなぁ。」と思ったことを思い出して、2つも重なるということはやはり行かなければ。
ということで今日はお墓参りに行ったのであります。
京成電車で日暮里へ出て、そこから巣鴨へ。
ここまでで家から1時間半。
遠いなあ、のど乾いたなア。
と思ったけどジューススタンドがトイレの隣り。
う~ん、よしておきましょう。
巣鴨の駅は昔からこの場所。
昭和43年に開通した都営三田線乗り場へ向かう階段の位置は変わらないから、駅がどんなに立派になっても、確かここなわけで。
こんなに大きなホテルが建っている。
APAホテル。
地元の人なら巣鴨にホテルがある必要性など感じないのですが、こんなに大きなホテルがあるということは、それなりに埋まるのだろう。
今度泊まってみようかな。
でも、確かここは都バスの車庫だった場所。
都バスの車庫になる前は都電の車庫だったかな。
まだ地下鉄ができる前、親父と一緒にここにバスの定期を買いに来た記憶がよみがえる。
そして老人の原宿と言われる巣鴨地蔵通りへ。
実は去年の11月に突然右足が痛くなりまして、あれよあれよという間に歩くのに難儀するようになりました。
今は何とか持ち直していますが、足が痛いと歩きたくない。
そう思っているのですが、逆に考えるとまだ歩ける今のうちに歩いておいた方が良いということもあるわけで、今日の気持ちは後者。
だからわざわざ巣鴨で降りて、数十年ぶりの地蔵通りを通ってみようと考えたのであります。
新潟ご出身の方が開いたお店かな。
意外と東京23区でも城北と呼ばれる北側の地域には新潟出身者が多いのです。
私たちはふだん巣鴨のお地蔵さんと言ってますが、正式名称は高岩寺。
お地蔵さんに水をかけてタワシでこするというのがここのお参りの仕方です。
このお地蔵さんはとげぬき地蔵と言われていて、小さな紙にお地蔵さんの絵が描いてあるお札があって、とげが刺さるとそのお札を貼ったり飲んだり。
地元ではたぶんどの家にもそのお札があって、子供のころ喉に魚の骨とかが刺さったと言っては、おふくろさんがどこからともなくお札を出してきて「これ飲みなさい。」というのが昭和でした。
お地蔵さんの縁日は確か4の日。
今日は22日でしたから静かなものでした。
この道は旧中山道。
老人が多いのでメリヤスの下着などを売る店が多くて、「幸せの赤いパンツって何だろう。」
そうこうしている間に庚申塚に到着。
この線路の横のお米屋さんは確か同級生。
でも、あまり親しくなかったんで素通り。
親しかったとしても45年ぶりなら立ち寄ることはできないですけどね。
素通りと言えば私自身この道を歩くのは45年ぶり。
45年前に原付の免許を取ってから、いつもラッタッタで通り過ぎるだけでしたから。
その前はチャリだし。
ビートルズのレコードの歌詞カードをコピーしようと思って、庚申塚まできた記憶がある。
何しろコピー機があるお店が近くになかったから。
そんな時代でした。
さて、都電。
この時計が付いた駅名表示は多分昔のまま。
それ以外は綺麗になってますね。
電車もきれいなのがやってきました。
都電はもうすでに世の中を引退した方々の乗り物と化していて、皆さん都民のパスで乗られている。だから、老人が老人に席を譲る世界なのでありまして、私などは若造ですから席が空いていても絶対に座らないことにしているのです。
さて、到着。
ここがお墓の最寄り駅。
先日、半野さんがUPされていた昭和の写真と同じアングルで撮ってみた。
サンシャイン60(真ん中奥)は確か今から45年前、私が高校生の時にできたと記憶していますが、当時東洋一とうたわれたビルも、こうして見ると小さくなりましたね。
さて、ここからが家のお墓のある霊園。
有名な人も数多く眠られているようで、夏目漱石とか、野木大将とか。
大川橋蔵さんは昭和のイケメン俳優さんで、人気ありましたね。
いつ以来かはちょっと忘れましたが、数年ぶりにやってきました。
ちょっと迷いましたがたどり着きました。
手前にある鳥塚家の墓というのは、実はうちじゃなくて、平のおじさんの家。
そう教わっていました。
平のおじさんという人には会ったことがありませんが、福島県からお参りにいらしているのでしょう。お花が飾ってありました。
他にも角館のおばさんという人がいるらしいのですが、会った記憶はありません。嫁いでしまえば姓も変わるし、もうわかりませんね。
そう、うちのお墓はその奥にある方。
こちらです。
子供のころから「うちでは花は飾らない。」と教えられてきましたので今日もシキビだけ。
なぜ花を飾らないのかはついに聞きそびれてしまいましたが、学会じゃないのにね。
でもって平民だった証拠に墓には名字がない。
荒久という屋号だけ。
つまり、名字帯刀を許されていなかったということでありますが、荒久の荒は荒川の荒。
元々の出は秩父の荒川村というところで、寄居の鉢形城の城主に仕えていたとか。(父親から聞かされていたお話し)
その証拠に鳥塚という苗字は埼玉県の寄居に集中しているという事実がありまして、ネットで調べたら全国に400件ほど。
その多くが寄居に集中している。
うちは5人の子供のうち4人が男子ですから、鳥塚姓400件のうち5件。
1.25%なのであります。
たいしたもんだ。
まぁ、いいか。
でもって、墓の後ろを見るといろいろ書かれておりまして、水をかけて見ると浮き立ってくる。
見えますか?
天明元年とか、寛政8年、寛政12年という文字。
子供のころからこれが不気味で仕方がなかった。
天明というのは1780年代。
寛政は1790年代。
今から240年も前のお話しであります。
こうやって知らないご先祖様が代々命をつないでくれたおかげで今の私がいるのでありますから、しっかりと世のため人のために授けていただいた力を惜しみなく発揮しなければならないのです。
というのが今日の収穫。
いつもお墓参りをすると、いろいろご先祖様から教えられるのです。
ありがたやありがたや。
さて、お墓参りを終えるといつもなら池袋へ出てお昼ご飯を食べるのですが、都電の線路が何やらすごいことになっている。
区画整理でしょうか。
いったいどうなっているのか、池袋とは反対の方へ歩いてみました。
次の電停は鬼子母神前。
ドラマ「水漏れコースケ」の舞台となった町で、東京っ子にとってはなじみの場所。
お参りをして、樹齢600年のイチョウの木にも手を合わせてきました。
そしてさらに線路沿いを南下。
実はここも高田って言うんですよ。
千登勢橋を通りかかったらちょうど都電がすれ違い。
ラッキーな一枚。
そして明治通りへ。
このあいだカラオケやってたら画像が出て来た学習院下。
そう、ここは懐かしのデートコースなのであります。
都電が並走するのは明治通りですが、その前は高田街道と呼ばれていました。
板橋宿から高田馬場に来る道で、今の板橋区役所前から東上線の線路を渡って金井窪から池袋本町を通って、明治通りに合流しているのですが、反対側は加賀屋敷。
板橋宿には加賀前田藩の江戸屋敷があって、今でも加賀町という地名が残っています。
その板橋宿から分岐して私が以前に住んでいた家の前を通って、大山東町から大山駅を抜けてハッピーロードになっているのがかつての川越街道。
川越街道から左に曲がって続いているのが大山街道。
つまり、大山は大山詣での起点だったのであります。
(今日は板橋には行きませんでした)
さて、学習院下から大きく左に曲がると面影橋です。
下を流れる川は神田川。
そう、「あなたは、もう、忘れたかしら?」のあの神田川です。
なんで男の方が長湯だったのかは今でも不思議ですが、このあたりも昔は下宿街だったのでしょうか。
そうそう、ここも地名は高田です。
ここに来ると、必ず行くのが山吹の里。
「蓑の一つだに 無きぞ悲しき」
のお話しの山吹の里です。
デートコースでここを訪ねた45年前の私は、「山吹の里」の話を知って、きちんと教養だけは身につけておかなければならないと思ったのであります。
そして、今日があるのであります。
終点の早稲田まで歩いて都電に乗って、大塚乗り換えで御徒町へ。
最後はここに立ち寄ってお買い物。
ここの経営者も高田の人だと聞いたことがあります。
越後の酒を取り揃えている売り場案内が特徴的でした。
ということで、今日は私のふるさと巡りの旅にお付き合いいただきましてありがとうございました。
まぁ、東京育ちというのはふるさとがないと言われていますが、確かにそう思うのであります。
でも、ところどころに子供の頃の思い出が残っているのも事実でありまして、それが良いのか悪いのか。
45年ぶりに歩いた道を振り返りながら、思い出の中の心のもつれを1つずつほどいていくことも必要なのかなあと思いました。
でも、多分、もう来ないだろうな。
だって、45年後はないからね。
そう思うとなんだかホッとする私がいるのです。
▼山吹の里についてはこんなサイトがありますので、ご興味のある方はどうぞ。
https://monumen.to/spots/1039
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