昭和をどうプロデュースするか。

時代劇を作っているテレビや映画会社の皆さんはどうやって当時を再現しているのでしょうか?
誰も見ていた人はいませんから、まあ、適当というわけではないでしょうけど、いくら歴史研究家の方々のお墨付きがあっても、そんなものなのでしょう。

これが今の朝ドラ「エール」や去年の大河ドラマの「いだてん」ぐらいになると、例えば明治時代や大正時代の街角のシーンで、蒸気機関車の汽笛が「ポ~ッ」と聞こえたりする。
姿は出てこないけど、効果音的に使っているんでしょうね。
街角で「ポ~ッ」

なんとなく雰囲気が出ますけど、やっぱりおかしい。
なぜかというと大正時代までは機関車の汽笛は「ポ~ッ」じゃなくて「ピョーッ」。
九州で走っているハチロクという機関車がまさしくそれで「ピョーッ」。
だから、明治末期や大正時代の街角のシーンは「ポ~ッ」じゃだめなんですよ。

でも、SL時代末期はほとんどの機関車が昭和生まれでしたから、SLといえば「ポ~ッ」。
だからテレビ局の人も何も考えずに「ポ~ッ」って音を入れているのでしょうね。

では、昭和はというと「戦前、戦中」から始まって「昭和20年代」「30年代」「40年代」「50年代」と10年ごとに分けてもいろいろありますから、その辺をしっかりやらないと「昭和の再現」などと分かったようなことを言っても、実は薄っぺらだということになるのですが、多分、そういうことを言っている人は理解できないでしょう。

でも、それを受け止める人たちも昭和30年代も50年代も同じように昭和だと思っている人たちが主流になってきているでしょうから、まあ、そんな細かなことはどうでもよくなってきているのかもしれません。

では、なぜ、今夜はこんなことを思っているかというと、実は夕ご飯にお刺身を食べていたんです。
でも、一人暮らしの身にはどうも食べきれない。
そこで、ちょっとだけとっておこうと思ったのです。

新潟のぶりのお刺身ですが、皆さんならどうやって取っておきます?
そのまま冷蔵庫でしょうか?

私は、お刺身を食べていた醤油を絡めて取っておくことにしました。


今夜の晩餐。
豪華でしょう。(笑)

実はみんな冷蔵庫の残り物。
サバも、厚揚げも賞味期限切れ。
キャベツとなすと豚肉の炒め物は昨日食べて、今日のお弁当にオカズにした残り。
新しいのはブリの刺身だけでしたが、古いものは食べたんですけど、ブリが食べきれなかった。
だから、醤油を絡めて取っておくことにしました。

わずか3切れですけど、明日の朝、焼いて、お弁当のおかずにしようと思いました。

で、こうして醤油を絡めていて思い出したんです。

小学校のころ、勝浦の田舎の家に行くと冷蔵庫がありませんでした。
あったのかもしれないけれど、今のように大きなものじゃなくて腰ぐらいまでの高さの小ぶりなもの。
で、お刺身の残りを明治生まれのおばあちゃんが、こうやって小皿に盛ってお醤油の残りを絡めて茶箪笥に入れたんです。
冷蔵庫じゃなくて茶箪笥。
多分、お刺身はそういうものだったんでしょうね。

私が勝浦のおばあちゃんちに滞在していた時の話ですから夏休みです。
真夏の時期に、残ったお刺身に醤油を絡めて、そのまま常温で一晩置いていたんですね。
そして、翌朝、それを食べていたんです。
私にはさっと焙ってくれましたが、それがまたお刺身以上においしかった。
でも、大人の人たちはそのまま食べていました。

これ、すなわち「漬け」というやつで、最近よく「鮪の漬け丼」なんてものを出すお店を見かけるようになりましたが、昭和40年代というのは、残ったお刺身を醤油につけて置けば次の日に食べられたんですね。ていうか、皆さん食べていたんです。
そう、冷蔵庫のない時代の保存食が「漬け」なのであります。

だから、私は定食屋さんで「鮪の漬け丼」はあまり食べたくありません。(笑)

まあ、それはさておき、昭和というのはそういう時代でしたから、つまり昭和を再現するということは、そのぐらいの時代背景を知らなければ「魂入れず」になるわけで、ということは、こんな私の最後のお仕事はこの「昭和の再現」になるのではないかと、一人で晩御飯を食べながら、ふとそんなことを思ったのであります。


▲昭和40年代のボクです。
こんなちっちゃなカメラで、半ズボン姿で小遣い貯めて汽車の写真を撮ったりしてました。もう50年前!(爆笑)

佐倉機関区と総武本線のSL列車。

「あれから40年」ではありませんが、こんなのどかだった田舎にその後移り住んだのであります。

日曜日に北海道安平町を訪ねて、そんなことを思い出しました。


▲ここが、
▼このような場所になる。

お刺身の残りから、こんな景色が見えてきた今宵なのであります。

大事なのは、将来図が見えているかどうか。
人間は、将来こうなりたいと思わなければ、そうなることは不可能ですから、妄想でも何でもよいから、将来予測が見えるかどうかが大事なのだと、私は今夜、あらためて思ったのであります。