帰りの飛行機で出会った人

台湾から新潟へ戻りました。

東京駅から新幹線です。

帰りの飛行機はB777。
実はこの777という飛行機、設計時の座席配置は横9席です。
ところが、国内線の座席配置は横10列。
B747ジャンボジェットが10列でしたから、それに合わせて10列にしたんだと思いますが、777は客室の幅が747に比べて20センチちょっと狭い。そこに同じ数の座席を置くのですから、1席あたりの座席の幅が狭く窮屈なんです。
だから私は国内線の飛行機では極力777の便は乗らないようにしていますが、国際線の場合は本来の横9席ですから、ゆったり?(というほどではありませんが)、快適なのです。


まして今日はこんなお席をいただいて、実にゆったり。


機内食もおいしくいただきました。

そうそう、午前中発の便でしたので家訓によりアルコールは禁止。
いただいたのはノンアルビールです。

往復5万円台で乗せていただけるのですから、ありがたいものです。

国内線でも正規運賃で買うと片道4万円もしますからね。

でもって真ん中4席並びで隣りは空席だったのですが、その隣にはおじいちゃんが。
私が機内に入った時にはすでに席についていらっしゃいましたので、車いすで御搭乗されたのでしょう。まっすぐ前を向いたまま全く身動きしていません。
たぶん娘さんでしょう。おばさんが隣りの席に座ってお世話しています。
機内食も自分では食べられないようなので、おばさんが食べさせてあげていました。
機内の枕を首や腰に当てて、動かないようにがっちりガードしている感じです。

台北からの帰りの便は2時間10分ほどで羽田に到着しました。
到着した時に、荷物などお手伝いすることがあるかと思って、おばさんにちょっと声をかけたんです。
「大丈夫ですよ。」と言われましたので、「おじいちゃんお幾つですか?」と聞いてみました。
そうしたら「87歳です。」
おじいちゃんはもう話すこともままならないようなので、すべておばさんとの会話。
「おじいちゃん、もうあまりしゃべれないんです。」とおばさん。

「87歳ってことは、昭和7年ですね。サルですね。」
「よくわかりますね。」
「ええ、私の父と同じなんですよ。」

気になったので、どこまで行くのか聞いてみたら、
「カワヅです。」
「静岡ですか?」
「そう。遠いんです。」

パスポートがちらっと見えましたが、台湾の方のようでした。
でも、おじいちゃんの年齢なら日本語も当然わかります。

「おじいちゃん、お家まで気を付けてね。お元気で。」

私がそう言うと、おじいちゃんは手袋をした右手を出してきて、私はおじいちゃんの目を見ながら握手をしました。

うちのおやじも生きていればこんな感じになっていたのだろうか。

私の家は私が10代の頃父と母が離婚しましたので、私は若いころを最後に父には会っていません。
20年ほど前に風の便りに亡くなったと聞いただけなんです。

だから久しぶりに昭和7年生まれの方に出会って、ふと、父親を思い出したのです。

きっと、おじいちゃんの年齢では戦前は日本の教育を受けているでしょうから時代の波に翻弄されるような人生だったのではないでしょうか。

昨日の話に戻りますが、私が15年前に台湾国鉄の撮影を始めたころ、台湾の列車の中で何度か経験したこと。
日本人を見つけると話しかけてくるおじさん(といっても70ぐらいでしょうか)に何人も会いました。
平渓線の中でも「あんた日本人か?」と声を掛けられて、「そうです。」と答えると、日本の演歌を歌ってくれたおじさんもいましたし、特急列車の中では「私は第〇〇連隊で高射砲を打ってたんだ。」というおじさんもいました。
今思えば今日会ったおじいさんの年代の人だったのでしょう。

昭和一桁の人たちもずいぶん少なくなりましたね。

声をかけた私の顔を見ながら、握手を求めてきたおじいちゃんに、自分の父親がダブって見えた帰りの飛行機でした。

「午前中は酒を飲むな。」

これは親父からの言いつけです。
おじいちゃんの前で飲まなくてよかったなあ。

昭和は遠くなりにけり。

おじいちゃん、お元気で長生きしてくださいね。