昔当然であったことや正しいとされていたことが、今、全く別の意味や解釈になっていることがありますね。
前にもお話しましたが、私の子供の頃は、食品の宣伝には必ず「栄養豊富」と書かれていました。
「この食品を食べれば体が元気になって、大きくなります。」
ということですが、日本人は、どうせ食べるなら栄養価の高いものの方が良いということで、こぞって「栄養豊富」を目印に食品を選んでいました。
覚えているのが牛乳やアイスクリームのCM。
「乳脂肪8%」などと、脂肪率が高いことを売りにしていて、「濃いですよ。」と会社が宣伝していました。
どうせ買うなら「薄い」よりも「濃い」方が良いと、国民は皆そう思っていたのです。
当時はまだ、戦後の流れの延長線で、「食べられることの幸せ」を身に染みている大人たちがたくさんいて、そういう大人たちは、自分たちはもちろん、自分の子供たちにも栄養豊富なものを食べさせたいと願っていたのです。
今はどうでしょうか。
言うまでもなく、カロリー控えめ、低脂肪が当たり前で、国民は誰も全く疑っていませんね。
高脂肪、高カロリーは購買意欲のキーワードにはなっていないんですね。
さて、私はすでにもう大人になっていましたが、今から30年ちょっと前でしょうか、「気配りブーム」がありました。
NHKのアナウンサーが「気配りのすすめ」という本を書いて、空前のベストセラーになりました。
このアナウンサーは実に頭が良い人で、人間関係をどう生き抜いていこうかというある意味人類のテーマのような難題を、1冊の本で実にわかり易く国民に説いたのですから、この本はたちまちベストセラーになりました。
マナーだとかエチケットだとか、礼儀だとか、そういう作法以前の問題として、相手のことを思いやって、「こんなことしたら嫌がるだろうなあ。」ということはしないようにする。「こんなことをしたら喜んでくれるかなあ。」とか、「相手はきっとこういうことを望んでいるんだろうなあ。」というようなことを、事前に察知して、相手に言われる前にさりげなく行動に移すこと。これが「気配り」で、そういうことを考えるのが「思いやり」であり、そういうことを察して実行することが、日本人の美徳とされました。
当時の私は、まだ20代でしたから、この「気配りのすすめ」という本がベストセラーになって、テレビを見ても「気配り」、雑誌を開いても「気配り」、人と人とが会話をしても「気配り」という風潮にある意味辟易して、「そこまで来ると、どこが気配りなんだ。気配りじゃないじゃないか。」などと感じていたことを思い出しますが、まあ、とにかく学校でも会社でも家庭でも、みんな「気配り」がテーマになっていました。
そして30数年を経て、今、「忖度」の時代ということですよね。
これって結局は同じことだと私は思います。
ただ、使っている場所が違うだけ。
「気配り」は公の場の中で見知らぬ他人同士がお互いにお互いに対して配慮すること。または、並列の関係で、お互いを思いやることです。
これに対して「忖度」は村社会の中で、その村の中の集団の長(おさ)に対して、配慮すること。
「そんなこといちいち言われなくたって、気づくのが当然だろう。」と、長が言う前に、こちらの側が察知して、配慮することで、国会や霞が関でそういう話が出るということは、この国は、田舎の役場の話ではなくて、国全体が村社会だということになりますね。
民間では考えられませんが、公務員というのはそういう「常識」になっているのでしょう。
そして、その常識が「美徳」であり、それができなければ、排除されるのでしょうね。
これは実に難解で、彼らの世界でだけ通じることでしょうから、つまりはそれが「村社会」なのでしょうけど、そういうことを理解してはいるものの、「関係ない」と考えて「忖度」しない民間人は、きっと配慮に欠ける非常識人ということになるのでしょうか。
わかっているんですよ。
「気配りのすすめ」を読んだ世代ですから。
ただし、敢えてやらないだけですけど。
さて、昔の常識が今の非常識。あるいは、昔の非常識が今の常識ということが、30年、40年経つと起きるというのは本当のことで、例えば路面電車。
今から40年前、路面電車というのは都市交通にとって「諸悪の根源」でした。
渋滞する、遅い、不便、などなど。さんざんな扱われ方をしていました。
京都の市電が廃止になったのが今からちょうど40年前。
この間、京都でタクシーに乗ったら、運転士さんが「市電を廃止にしたのは失敗でしたね。観光客にとって見たらあれほどわかり易い乗り物は無かった。」と言ってました。京都は市電を廃止したものの、その後の交通政策がうまく行かず、今では大渋滞が日常化していますから、タクシーの運転士さんがそういうのもよくわかります。
今の時代は路面電車は「人にやさしく、エコな乗り物」ということが常識で、富山では新幹線の駅の真下に乗り場を移設して便利な接続を図っていますし、一部の路線を延長して環状線にしています。札幌でもつい最近市電の路線を延長し環状化して、外人観光客にとっても実に使いやすい乗り物になりました。宇都宮でも市内交通にトラムを導入しようという流れになっています。そういう時代に、「市電は交通渋滞を巻き起こすから廃止にしよう。」という話になれば、「お前はバカじゃないか。もっと勉強しろ!」と言われてしまいますね。
つまり、40年が経過して、時代が変わって価値が変わったということなのです。
では、ローカル線はどうでしょうか。
40年前は、「赤字の垂れ流し。」「乗りもしないのに、残せ残せという、地域住民のエゴ。」と言われていました。
だけど、今はどうでしょうか。
ローカル線があればテレビや雑誌が来るし、ローカル線があれば地域が有名になる。
地域が有名になれば、地域に人が来て、地域に人が来れば、地域が活性化する。
こういう使い方さえできれば、ローカル線は、今の日本の田舎の閉塞感を打破できる格好のツールになる。
私はいすみ鉄道でこういうことを実にわかり易く、手の内をすべてさらして、長年取り組んできていて、実際にいすみ鉄道のやり方を、「なあんだ、そうやればよいのか。」といろいろなローカル線が真似して、あるいは見習ってやってきて、ここ数年、日本全体でローカル線が元気になって来ていて、ローカル線がある地域そのものが元気になって来ているという事実があるのです。
だったら、いい加減に霞が関もローカル線に対する考え方を変えて、「バス転換」などと冷たいことを言わずに、もっとローカル線にやさしくなっても良いのではないでしょうか。
下々の者たちが上に対して気を遣うのが「忖度」だとすれば、それは村社会ですよね。
長年それでやってきて、日本は良くなっていない。特に田舎は良くなっていないのです。
そのやり方で長年やってきて、良くなっていないのであればやり方を変えなければなりません。
では、上の人間が下々の者に「忖度」したら、これは面白いことになるんじゃないでしょうか。
国の役人のような偉い人たちは、ふつうの私たちよりも頭の出来が良いわけですから、彼らの側から下々が何を考えているかを「忖度」して、いちいち細かいことをこちらが言わなくても、そのぐらいやりなさいよ。できるはずでしょ。気付いているのですから。どうせこちら側から徴収した税金じゃないですか。
ふだんから税金の無駄遣いをしているくせに、こちらがちょっと赤字を出せば、「公金を投入してるんだぞ。わかってるのか。」などと木端役人が民間人を脅すような、そういう構造はこれ以上そのままにしていてはいけないのです。
そして、上の人間が下に対して「忖度」するような時代になれば、その上の人間は「よくやった。」と褒められることはあっても、議会でつるし上げられることはないのです。
まあ、そういうことができれば簡単でしょうけど、それが実に難しいのでしょうけどね。
でも、本当に頭の良い人というのは、くだんのNHKアナウンサーのように、実に難解なことをさらりと簡単にやってしまう人ですから。
4月1日に書いた、 「民のかまどは賑わいにけり」 とは、つまりはそういうことなのであります。
偉い人たちにこういうことがわかるぐらいなら、今、日本はこんなにはなっていない、という事実もある中で、敢えて偉い人たちに「忖度」を求めるのも、いすみ鉄道社長の仕事だと私は考えます。
なぜなら、1500年以上も前の人にできたことが、今の時代にできないとは思えませんから。
40年前の高校生が撮った京都市電です。
今残っていればねえ。
もったいないことをしましたね。
これから、さらにもったいないことをする人たちがいないことを願っています。
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