先週のこのブログで、小学生の頃、世田谷の親戚のお寿司屋さんで配達の手伝いをしていたお話をしました。
実はその頃、土日は代々木や千駄ヶ谷の塾に通っていて、それが終わってから渋谷からバスに乗って世田谷の真中に通っていたのでありまして、今考えたら、小学生のうちからアルバイトをしているようであれば勉強の妨げにはなるし、だったら塾になど行かなければよいだろうと思われるかもしれませんが、私にとっての塾通いというのは、電車に乗ることが目的でありまして、アルバイトも同じで、電車に乗って親戚の家に行かれるということと、お手伝いをするとアルバイト料が入りますから、つまりは一石二鳥で、実に有意義な行動だったわけであります。
親戚の家でアルバイトといっても、せいぜいひと月に3~4日の話ですが、昭和47年ごろの物価で言うと、交通公社の大型時刻表が確か250円でしたが、その頃、1日アルバイトへ行って千円ももらえれば、これはありがたい収入で、ネオパンSSの36枚撮りを買って、写真を撮って現像に出すと(プリントしなくてネガのみ)、フィルム代と現像代で500円でおつりが来ましたから、私にとってはありがたい軍資金だったのです。
でもって、塾へ行くカバンの中にオリンパスのトリップ35を忍ばせて、熟が終わってから、東京中をあちらこちら電車に乗って写真を撮っていたのであります。
当時は国電区間と汽車区間というのがありまして、国電区間というのは北は大宮まで、東は千葉まで、西は高尾まで、南は横浜まででしたでしょうか。つまりは京浜東北線と中央線快速電車区間と総武緩行線区間。あとは常磐線の取手までで、たしか根岸線はまだ全通前で、洋光台ぐらいまでしか行ってませんでしたから、東海道方面の国電区間というのは横浜までということと考えられていました。
小学校6年生にもなると、東京の国電には乗り飽きていましたので、私はあるとき、東海道線の電車に「ちょっとだけ」乗ってみることにしたのです。
この日は昭和47年10月の鉄道記念日の頃で、C577が引く鉄道百年特別列車が運転された時で、品川駅でその列車を迎えた私は、その後、東海道線の電車に乗りたくなりまして、一駅だけ、つまり、川を渡って神奈川県の川崎まで出かけてみました。
その時撮影した写真がこれです。
東海道線の113系、デカ目。
横須賀線のデカ目。
当時の横須賀線は、東海道本線と同じ線路を走っていました。
これは153系の急行です。「東海」か「伊豆」かは不明ですが。
横須賀線、シールドビーム。
この時すでに東京地下駅は開業していて、総武快速線の電車は地下ホームから出ていましたが、横須賀線は地上ホームからの発車でした。品川―東京間の地下区間は開通していなかったのですが、地下区間へ乗り入れることができるような新しい電車が横須賀線には徐々に投入されていました。
寝台特急「さくら」通過。
なぜ私は川崎駅のホームにこれだけの時間滞在していたかというと、実は鉄道百年記念列車をけん引したC577は横浜の高島港へ戻るはずで、横浜に戻るのであれば、東海道線を通るであろうから、川崎で待っていればやってくると考えていたからです。でも、実はC57の回送は当時は貨物専用線だった横須賀線の今のルートを通って横浜へ戻っていったので、私はいつまで待っても、待ちぼうけだったのです。
ということで、当時の1列車、特急「さくら」が東京駅を出るのが16時でしたから、川崎ではそろそろ暗くなってくる時間帯で、遠出をしていた私はだんだん不安になってきて、「さくら」が通過するのを見て、「そろそろ帰ろうかなあ。」と待ちぼうけの締めくくりをしたのであります。
「あれから40年。」どころではありませんね。
すでに45年が経過している昭和47年10月。
小学校6年生だった時の私の作品です。
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