記憶の残照

小学生の時に撮影した電車の写真を見ていたら、思い出したことがありました。

 

それは、今頃の季節になると、毎年電車にいろいろな文字が書かれ、ビラが貼ってあったことです。

 

芸術的センスは皆無でしたが、いつも春になると電車にいろいろ貼り紙がしてあったり、文字が書かれていたり。

そして、そのうち電車が動かなくなるのです。

 

そう、春闘。

 

労働組合の闘争です。

これが毎年の恒例行事でした。

 

そういう時代に多感な時期を過ごした昭和の少年としては、当然会社に入ると組合運動に引き込まれるわけで、「オルグ」だとか「教宣」だとか、今の時代、変換しても出てこないような言葉を教え込まれて、そういう活動をするようになったわけで、そういう教育を受けた人間にとって見たら、3月の声を聴くと、なんだか懐かしくなるのです。

 

皆さん、ストライキのやり方ってご存知ですか。

きちんと法律にのっとってやらないと、山猫ストになってしまいますからね。

まず、職場内で集会を開きます。そして、春闘の方向性を決めて要求書の内容を固めて、職場内でスト権投票を行います。

もちろん労働組合があることが前提になりますが、このあたりがちょうど今頃から始める作業です。

各職場の投票をまとめて、その結果、スト賛成が多ければ、ストをやるということになり、要求書の作成に取り掛かります。

春闘で会社側と交渉する項目を従業員の代表である執行部が作るのです。

そして、その要求書というのを、中央労働委員会というところへ持って行きます。

すると、その中央労働委員会の皆さんが、要求書を読んで、内容が妥当かどうか、例えば「給料を3倍にしろ」とかいう要求では現実的ではありませんから、そのあたりを時代背景や世の中の流れを見ながら簡単に審査をしてくれますから、そこでOKであれば、霞が関の労働省へ持って行くのです。これをスト権ファイルと言いまして、きちんとお役所に届け入れることが必要なのです。

この作業がだいたい3月15日ぐらいから20日ぐらいにかけてでしょうか。

なぜなら、スト権をファイルすると官報に掲載されて、広く国民に知られることとなりまして、それが知れ渡るために必要な期間が10日間という考え方に基づいて、スト権はファイルしてから中10日を置いて発効する(実際にストライキが可能になる)ものでありますから、4月1日の交渉開始に向けては、この時期までに労働省へ提出しておかなければならないのです。

 

このあたりとほぼ同時に、会社に対して団体交渉を申し込みまして、要求書を提出いたします。

要求書は別にスト権をファイルしなくても提出することはできますが、スト権をファイルするということは、会社に対してこちら側の「本気度」を伝える狙いがありますから、「しっかり満額回答してくださいよ。」という強烈なメッセージになるのです。

そして、4月1日を回答指定日として、次回の団体交渉となるのです。

 

ではなぜ4月1日を回答指定日とするかというと、これは、いろいろな会社の様子見をする経営陣がいるからで、業界は横並び意識が強いですから、例えばA社が先に回答を出してしまうと、B社やC社がそれにならって解答を出してしまいます。業績の良くないA社と業績の良いB社が、A社に見習ってしまえば闘争になりませんから、一斉に回答を求める。これが回答指定日で、各社の労働組合(単組)の回答を上部団体が一斉集計して、4月1日の夕方には「ベア○○パーセント」などと発表するのです。

 

要求書に対する回答は、いきなり満額回答などありませんから、そこから各社ごとの団体交渉が始まるのでありますが、交通機関の場合は、何度か交渉を重ねた中で、納得がいく回答を得られない場合は、ストライキを行うという実力行使に出るのです。

そして、その実力行使のターゲットが、だいたいゴールデンウィークごろになるのでありまして、「観光のシーズンが台無しになりますよ。それでも良いんですか?」と、いうなれば国民を人質にとった条件闘争になるのです。

 

昭和の時代はこういう世の中だったわけで、つまりは、小学生だった私が、なけなしの小遣いをはたいて、カメラにフィルムを詰め込んで、「よし行くぞ!」と出かけてきたにもかかわらず、汽車や電車に大きく落書きがしてあって、「あ~あ」とがっかりさせられたことは一度や二度ではないということなのです。

 

▲クモハ73全金車のきれいなチョコレート電車なのですが、がっかりしたなあ。

 

▲昭和47年は沖縄返還本土復帰の年でしたから、春闘も沖縄がひとつのテーマになっていたのでしょう。

 

▲クハ79ですが、こちらはビラがベタベタ貼られています。

 

▲クモハ73の初期型ですか。前面Hゴム改造前の電車ですが、これじゃあ台無しですね。

 

▲ED16です。

実はこの時の本命はこのED16だったのですが、これじゃあ本当にがっかりです。

 

小学6年生がなけなしの小遣いをはたいて出かけた青梅線で、国鉄からこんな仕打ちを受けたわけでありまして、私は、思い起こしても、この時以来青梅線で奥多摩へ出かけた記憶はありませんし、ED16も別にどうでもよくなりました。

 

とまあ、当時の国鉄にはシベリア帰りがたくさんいて、いろいろと教宣をしていたのだと思いますが、私は別に労働組合というのは悪いとは思っておりません。私自身も航空会社時代に6年だか8年だか執行部経験がありまして、副委員長や書記長を務めていましたが、労働組合というのは従業員が会社と会話できる唯一の組織でありますから、会社としても、組合があると物事を決めるときに話が早いのです。

特に、会社が巨大になりすぎたり、組合が弱体化したりすると、組合経験のない経営幹部が著しく多くなります。そうなるとどうなるかといえば、経営の独走が始まり、そのうちそれが暴走になる危険性がありますから、きちんと従業員の立場に立った活動をする労働組合というのは、今のような時代こそ必要だと私は思います。まして、労働組合員というのは庶民ですから、利用者の側に立った意見を言うことが前提になるわけで、つまり国民の代弁者でありました。そういう前提に立っていたからこそ、昭和の日本国民は「ストやむなし」という組合の判断をある程度容認していたのです。

 

でも、労働者というのは昔と違いますから、生活に特に困らない時代になりました。ひところ言われていた一億総中流時代などという言葉がその良い例ですが、サラリーマンがマイホームやマイカーを所有して、海外旅行にふつうに出かけられるような良い時代になると、自分の時間を使って組合活動をするなんてことがばかばかしくなりますから、「組合は私に何もしてくれないから。」などという人が多くなってきて、どんどん弱体化してきましたね。本当は「あなたが皆さんのために何ができますか?」というのが組合活動なんですけどね。

 

時代というのは振り子のようなもので、ある程度の所で止まることができません。

必ず行きつくとこまで振り切れるものです。

この時の国鉄という振り子が完全に振り切って、方向性が変わったのが87年の民営化ということであるとすれば、その時を境に反対側に向かってきた振り子の頂点が、そろそろ見えてきているような気がするのは私だけでしょうか。

 

今、鉄道会社の労働組合が活動を活発化させてきているのは、もしかしたら、そういうところに来ているような気がしないでもありません。
マスコミや一般市民が、「ストライキなどけしからん!」という気持ちは理解できますが、私は、そういうことも必要だろうなあと、昨今の鉄道事情を見ていて、なんとなくそんなことを考えます。

 

そう、私は労働組合執行部を経験している鉄道会社の経営者だからです。

ストライキを実施する法的手順も心得ていますから。

鉄道会社の社長で、そういう人はめったにいないと思いますよ。

私と、由利高原の春田社長ぐらいではないでしょうか。

 

毎年この季節になると、「そろそろだなあ」と自分の旅行計画と春闘のニュースを見比べていたことを懐かしく思い出します。

 

と、46年も前の昭和47年、当時小学校6年生だった私が撮った写真を見て、そんなことを思い出しました。

 

 

はい、この時のボクであります。

 

子供だからって、なめちゃいけないのです。

50年経っても言われますから。

 

昭和47年4月29日 青梅線 奥多摩。

偉そうに鉄道を語るのは、このぐらいのキャリアがあるからなのです。