交通都市伝説 2

交通に関して、昭和の時代からもっともらしく言われてきたけど、実はそうではなかった事象。

私はこれを交通都市伝説と名付けてみたいと思います。

60年近く生きていると、世の中のいろいろなところにそういうものはありますね。

 

その1つが夜行列車。

本日はその夜行列車を取り上げてみたいと思います。

 

昭和の時代は上野駅からも東京駅からも新宿駅からも夜行列車が出ていました。

夜行列車というのは、寝ている間に移動して、朝になったら目的地へ到着しているのですから、実に便利な交通手段です。

上野駅からは金沢、長野、新潟、山形、秋田、青森、岩手、宮城など東北上信越北陸のすべての方面に夜行列車が出ていました。

新宿駅からも山梨、長野方面へ。東京駅からも名古屋大阪方面はもちろんのこと、山陰山陽や九州方面への夜行列車が発着していました。

ところが、その便利な夜行列車は、昭和40年代後半をピークに徐々に利用客が減って行きました。

その理由は、新幹線の延伸であり、航空機の台頭による国内輸送の変化でした。

 

ひと口に夜行列車と言ってもいろいろあって、特急だけじゃなくて急行もあれば各駅停車の夜行もありましたし、座席だけのもあれば、座席車と寝台車の両方が編成に入っていた列車もあれば、寝台車だけの編成もあって、お客様がそれぞれ、自分の懐具合と相談してどれに乗ろうか選択できたのです。

でも、当時は国の政策が「新幹線の延伸」で、国鉄イコール国でしたから、新幹線を延伸したところは、新幹線で行っていただいた方が国の政策に合致するわけで、まして各駅停車や急行列車に乗られるよりも、新幹線に乗っていただく方が売り上げも上がり、国鉄の赤字も減るということで、国鉄は大都市間輸送の営業の主体をどんどん新幹線に移行していきました。

そこに航空機の台頭が始まったのです。

つまり、新幹線対航空機の時代。

いくら新幹線でも飛行機にはかないませんね。

そして今の時代は、新幹線すら飛行機に取って代わられる時代になったのです。

 

さて、話を夜行列車に戻します。

このようにして、夜行列車は新幹線や航空機に変わって行き役割を終わっていったと言われているのでありますが、実はそうではなかったのです。

夜行列車が終わりを迎えたのは、国鉄時代から一貫して取ってきた政策が原因であります。

それは、利用者から高い金をとれるということです。

夜行列車は最後はずいぶん割高な印象を受けましたが、それは国鉄時代から安易な価格設定を行ってきたことで、利用者離れが起きたのです。

 

若い皆さんはご存知ないと思われるので敢えて書きますが、当時の国鉄は大きな赤字に悩んでいました。

その理由は経営的問題点はたくさんありますが、そういう手法の問題ではなくて、根本として、「国鉄は国民のもの」という考え方がありました。だから、できるだけ低廉な運賃で国民の生活を支えようという考え方です。

 

国民も国鉄職員も、基本的には同じ考え方でした。

つまり、「国民から儲けてはいけない。」というものです。

当時の日本は全体的にそういう時代だったんです。
で、結果として国鉄は大きな赤字を抱えてしまいました。

そして国鉄はその赤字を解消するために、運賃を値上げし始めました。

 

私がおぼえているのは国鉄の初乗り運賃が、小学校1年生の時には大人は20円でした。それが30円になり、6年生の時には確か40円。5~6年で倍になったのです。そしてその後数年で60円、80円、100円、120円となったのです。これはものすごい上昇率です。国鉄イコール国、つまり運輸省(今の国交省)ですが、そういう国の行為を、ある種の暴走と捉え、国民の生活を守らなければならないという大義名分で、労働組合が何度もストライキをしていたのは今では歴史の教科書に書かれていることですが、同時に国民の代表者である国会議員の先生たちも、「国鉄はけしからん。」「国鉄自体の努力が足りないのを差し置いて、赤字を国民に転嫁するのはまかりならん。」ということになりました。

当時の国鉄は国の機関でしたから、運賃を値上げしたいという話になると国民の代表者である国会の承認を得なければなりません。

毎年毎年度重なる運賃改定を行ってきた結果として、国鉄は運賃改定の承認を国会で得られなくなったのです。

つまり、赤字だからと言って勝手に運賃改定ができなくなりました。

 

そこで国鉄の幹部たちが目を付けたのが、運賃部分ではなくて、料金部分です。

皆様方も御存じだと思いますが、鉄道の切符には目的地までの輸送を引き受ける「運賃」の部分と、特急や急行、グリーン車などの快適なサービスを引き受ける「料金」の部分がありますが、この「料金」の部分は、一言でいえば「贅沢」のために支払うお金ですから、この部分の金額を改定するためには、国会の承認は不要だったのです。

 

当時の時刻表を見ていただければ、お分りになると思いますが、特急や急行を利用しなくても、時間さえかければ日本全国各駅停車で旅行ができるようになっていました。東京から青森や仙台、新潟や長野へも各駅停車が走っていましたし、終点まで行くと必ず次の区間の列車が待っていました。それにプラスして、急行や特急があったのです。つまり、「行こうと思えば運賃だけで基本的な輸送は約束されていた。」状態になっていました。だから、速く行きたいとか、必ず座りたいとか、足を投げ出してふんぞり返って行きたいとか、いっそのこと寝て行きたいなどということは、贅沢なことで、そういうことをやりたいのであれば別料金が必要ですよという考え方でした。

だから、その料金の部分であれば、国会の承認なしに勝手に国鉄は改訂できましたし、国民の理解も得られるだろうと、東大出のエリートたちは考えたのです。

 

でもって、料金にもいろいろあるのですが、一番庶民的なのは急行料金。これは乗車券に数百円プラスすればとりあえず急行列車には乗れる。いくら昭和の時代でも、各駅停車で仙台や青森へ行くというのは時代遅れになっていましたから、急行列車は庶民がふつうに利用する乗り物です。だから、自由席はついているし、200kmを越えればどこまで行っても同じ料金でした。

近いところへ行くなら急行列車はぜいたく品だけど、遠くへ行くなら必要ですよね、ということが料金を見ればわかります。国鉄はこの急行料金にはあまり手を着けませんでした。

 

特急料金は、特急が無くても急行列車を並行して走らせていましたから、急行で行かれるのに特急に乗るというのはある意味ぜいたく品です。特急、特急と一言で言いますが、これは実は特別急行列車という意味ですから、急行がある以上特急はぜいたく品で、当然グリーン料金などもぜいたく品です。

だから、運賃値上げができない時に、こういう料金系はどんどん値上げされていきましたが、そういう料金の中で、一番のぜいたく品が寝台料金だったのです。

私が小学生の頃、昭和40年代の半ばには、寝台料金(B寝台上段)は1000円程度でした。でも、寝台料金はどんどんやり玉に挙げられて、10年しないうちに6000円になりました。私は、今思い出しても、これこそ国鉄の暴挙だと考えているのですが、いくら物価上昇が激しい時代だったとはいえ、10年足らずの間に寝台料金は6倍になって、それにプラスして特急料金がかかります。もちろん乗車券(運賃)は必要ですから、つまりは寝台特急に乗車するためには「3階建て」の金額を支払わなければならないわけです。

そういう時代に同時並行的に、飛行機がバンバン飛び始めたのですから、乗客は寝台特急には見向きもしなくなりますね。まして、長距離になればなるほど、選択されるのは飛行機になりました。

 

そこで国鉄が取った行動は何かというと、まず、寝台急行列車を廃止しました。同じ区間に寝台特急と寝台急行の両方が走っているところは、寝台車の連結を急行列車からはずし、特急のみにしました。その方がお金が高く取れますし、儲かるからです。でも、寝ている間に移動して、朝になったら目的地に到着するのが寝台列車ですから、朝までに到着してくれればよいわけで、別に特急じゃなくても良いというのがお客様の気持ちです。そこで、寝台列車でも急行と特急の差別化は必要になります。

では、どうして寝台特急に乗るのか。それは特急と急行では料金が違う分サービスが違うわけで、つまり特急には食堂車がついていて車内販売がある。だから、特急寝台に乗るのですが、民営化されてJRになった後は、国鉄の残党たちは寝台列車から食堂車をやめ、車内販売もやめ、急行列車との料金の違いの部分であるサービスによる差別化を廃止してしまいました。そうなると、特急料金を取る理由がなくなりますから、今度は並行して走る廉価な座席車両を連結する夜行急行をやめてしまいました。そうすれば特急しかなくなりますから、料金の整合性が不要になるということでしょう。

 

こういうことを何度も何度も全国的に繰り返してきて、寝台特急という商品そのものは一切改良することなく、6000円払えば地方都市のビジネスホテルであればバストイレ付のシングルルームに朝食付きで宿泊できる時代に、国鉄時代に決めた寝台料金を見直すことなく適当な商売をしてきて、お客様がいなくなったというのが事実なのです。

 

つまり、国鉄の残党連中は、夜行列車というビジネスを開花させることができずに、自分たちでその芽を摘んでしまったのです。

その理由は、「新幹線をやっていれば十分儲かるから、夜通し列車を走らせるような高コストなことはやりたくないし、やる必要ない。」ということなのです。

 

ということで、本日の交通都市伝説は夜行列車。

夜行列車が衰退していった当時、交通学者の偉い先生たちは皆さん口を揃えて行ってました。

 

「夜行列車というのは、飛行機や新幹線の最終便よりも後に出発して、始発便よりも先に到着しないと意味がない。」

とね。

でも、これって実は大嘘だったのです。

 

その証拠に、今、新宿や池袋へ行ってみると、夜の8時過ぎからどんどん夜行バスが出発して行きます。

それも、かつての夜行列車が走っていた目的地へです。

「バスなんて貧乏人の乗り物だ。」という暴論を吐く人もいるかもしれませんが、今のバスはかつての寝台特急以上の設備を備えているものもたくさんあります。

仮にもし、バスが新幹線や飛行機に乗れないような貧乏人の乗り物だとしても、国鉄の残党たちは、きちんとそういう需要に応えることができなかったということではありませんか?

 

今、新幹線がどこへ走っていて、飛行機が何時に出発しようが、そんなこととは全くお構いなしに、大都市から地方都市へ無数の高速路線バスが運行されていて、そのうちの多くが夜行便であること。そして、廉価なシートばかりでなく、ゆったりとした、あるいは快適な個室空間のような車両もたくさん走っているということは、この国には夜行で移動するという需要が確実に存在するということで、国鉄の残党の人たちは、国も含めて、実はそういう需要を取に行くことはしなかったのであり、学者や評論家と呼ばれる人たちは、新幹線や飛行機の時代になると夜行列車は存在できないなどと、やる気のない鉄道輸送事業者を正当化するような解説をしてきたわけで、こういうことは全くの都市伝説だったのです。

 

世の中には偉い人たちが、自分たちの都合の良いように、まことしやかに国民の目を欺いている。

こういうことが、交通の中にもしっかりと都市伝説として息づいているのであります。

 

と、私は見ております。

あくまでも、私がそう見ているというだけのお話ですが。

 

じゃなければ、これだけ夜行バスが全国で走っているという説明ができないではありませんか。

 

 

(つづく)