みそぎと覚悟

国鉄改革があってJRになって30年が経とうとしています。

 

当時は当時の人たちがいて、当時の考え方があって、ローカル線はもういらないからバスで十分ですよということになったわけですが、当時は国鉄ですから、つまり国の偉い人たちが上から目線で田舎に住んでいる人たちに向かって、「お前たちの住んでいる地域に鉄道はいらない。バスで十分だ。」と言ったことは間違いありません。

 

当時は何段階かに分けて全国80以上の路線が「もういらない」と言われたわけですが、そのうち半分のところは「そうだよね、仕方がないよ、国が言うんだから。」と言って鉄道を廃止にし、残りの半分近くの路線の地域の人たちは、「何言ってるんだ。冗談じゃない。国がやらなかったら自分たちでやるんだ。」言ったのです。

若い人たちはご存じないかもしれませんが、国鉄の特定地方交通線を引き継いで誕生したいすみ鉄道のような第3セクター鉄道は、地域の人たちが、国の方針に反して、自分たちで鉄道を残した地域なのです。

これが今から35年ぐらい前の話です。

 

国はローカル線を廃止する代わりに、転換交付金というお金を地域に渡しました。簡単に言えば手切れ金ですね。

35年前といえば私はまだ大学生で、詳細な大人の事情など知る由もありませんでしたが、おぼろな記憶によると、転換交付金というのは、国の言うことに従って鉄道を廃止にしてバスに変えたところには満額を支払うけど、国の言うことに逆らって、第3セクター鉄道を立ち上げたところに対しては、転換交付金は半額に減額されたというニュースを覚えています。

バスに変えるより鉄道で残す方がお金がかかるのは目に見えてわかりきっているのに、国は鉄道で残すところには敢えて手切れ金を半額にしたわけで、つまりは、頭のいい国のお役人さんたちというのは、昭和の時代は地方に対してそういうことを平気でやる人たちだったわけです。

 

それでも当時は銀行に定期預金を預けておくと年利7パーセントぐらいもらえた時期でしたから、何億というお金を国からもらえれば、その金利だけで鉄道の赤字分は何とか補えると考えられていました。

ところがその後バブルが崩壊し、今に至るまで超低金利時代が20年以上も続いています。鉄道で残したところはお金がかかりますから、当然、もらった手切れ金など使い果たしてしまい、赤字補てんや上下分離の下部負担などに必要な分は、地域の自治体がお金を出して運営してきて、そして今でも鉄道が走っているのが第3セクター鉄道です。

 

私は、こういう日本の鉄道の歴史を目の当たりに見てきた人間で、今、その第3セクターを預かっているわけですから、ただ単に黒字になればよいとか、そういう問題ではなくて、「バス転換しろ」という国の方針に反して、自分たちの力で、自分たちのお金で鉄道を守ってきた沿線住民の人たちが、今、その守ってきた鉄道から恩恵を受けてもいいのではないか。そう考えています。

30年もローカル線を支えてきた沿線住民の人たちに、自分たちが守ってきたローカル線は、実はお荷物なんかじゃなくて、今の時代には1つの宝物であるということをご理解いただき、その鉄道が地域に利益をもたらす存在として、地域に貢献できれば、30年にも渡って自分たちの力で鉄道を守って来てくれた彼らの活動が実を結ぶのではないか、ということです。

つまり、鉄道が広告塔になって地域の知名度を上げ、地域の特産品を有名にし、地域に実際に人が来るようになる。そうすれば交流人口が増えて地域経済にも貢献できるし、ローカル線が宝物になる。国の方針に反して、手切れ金を減額されても、足りない分は自分たちでお金を出して、歯を食いしばって鉄道を守ってきた田舎の町が、その鉄道から恩恵を受けることは当然だし、それが鉄道会社を預かる身として、まずやらなければならないことだと考えて、就任以来7年以上、一貫して地域を紹介することを行ってきて、そうすることで観光客が増えて、鉄道会社にもキャッシュが入ってきて、結果として「大切な地域の足が守られている」。これがいすみ鉄道であり、その考えが私の心の中にある活動の原点であります。

 

別の見方をすると、国鉄の特定地方交通線と言われたローカル線を、廃止にしないで第3セクター鉄道を立ち上げた地域というのは、35年も前の時点で、ある意味「みそぎ」を済ませていて「覚悟」ができている地域だと考えているのです。

その「みそぎ」というのは、過去のしがらみはいろいろあるかもしれないけれど、そういうことにとらわれないで前を向いてやっていくということであり、「覚悟」というのは、自分たちのことは自分たちでやる。お金が足りなければ自分たちで出すんだ、という覚悟です。

 

あれから35年が経過し、当時の偉い人たちが良かれと思って決めた制度にもほころびが出始めているのは誰の目にも明らかです。その最たる例がJR北海道の問題といえるかもしれませんが、今この時点で、存続か廃止かですったもんだ揉めているところは、当時JR線として存続することが許された路線です。JR北海道の各ローカル線をはじめとして、只見線もそうだし三江線もそうです。こういうところは全て、当時いろいろな条件を理由として廃止対象路線への指定を免れ、JR線として存続することができた幸運な路線です。でも、その幸運さゆえに、「走っていて当たり前」になってしまっていて、鉄道があることのありがたみをきちんと心の中で整理することができていないのではないでしょうか。

その証拠に、今、存続を求めたり、廃止反対を訴えたりしている地域住民の皆さん方の意見を見聞きしていると、どうも鉄道が走っていることが当然だと考えているのではないかと思えるような意見が多い。「JRは新幹線や都市部で儲けているんだから、田舎の鉄道をちゃんとやるのは当然である」といった意見が多く聞かれています。つまり、私に言わせると、「みそぎ」を済ませていなければ「覚悟」もできていない地域だと思えるのです。

 

一番わかりやすい例としては岩手県の三陸海岸の鉄道があります。

岩手県の北部の久慈から南部の盛まで、北から三陸鉄道北リアス線(久慈―宮古)、JR山田線(宮古―釜石)、三陸鉄道南リアス線(釜石―盛)と3つの鉄道が走っています。この3つの鉄道はどこも地震と津波で大きな被害を受けてしまいましたが、今、三陸鉄道の北リアス線と南リアス線の区間は、すでに再建が終わり、去年の春から列車が走っています。ところが同じように被害を受けたJR山田線(宮古―釜石)は、まだ再建されず、現時点でいつから鉄道が運転再開されるか、はっきりとしためどが立っていません。話を聞く限りでは、お金を誰が出すかで長いことすったもんだしていて、やっと決着したようですが、その間に三陸鉄道はすでに運転を再開している。この違いはなんなのでしょうか。

三陸鉄道は旧国鉄の路線を転換した第3セクター鉄道です。つまり、「自分たちの力で鉄道をやっていくぞ」と35年前に覚悟を決めた地域です。それに対して、当時、幸運にもJR線として残ることができた山田線沿線の人たちは、幸か不幸か、その当時に「みそぎ」を済ませることができず「覚悟」することもないまま、今日まで来てしまったのではないか。私はそう考えています。今、廃止に直面して存続運動が行われている三江線も同様です。だから、話を聞いていると、「JRはちゃんと列車を走らせろ。」というような声しか聞こえてこないのです。

 

そういう地域が良いとか悪いとかの話ではありません。

実際問題として、岩手県の沿岸を例にとれば、三陸鉄道線の区間は震災から4年で鉄道が復活し、山田線の区間は今でも列車が走るめどが立っていない。この違いはどこにあるのかという根本的なところを見逃してはいけないということです。

 

私は鉄道が好きです。

いすみ鉄道も木原線時代から、何度も乗りに来ている、私にとって思い出の大切な鉄道です。

その鉄道を、自分たちの力で、歯を食いしばって、踏ん張って、もちろん多額のお金を自分たちで工面して、30年近く守ってきてくれた地域の人たちに対して感謝の気持ちを持っています。だから、その地域の皆様方が、今いすみ鉄道から恩恵を受けることができるようにすれば、「国の方針に反して、苦労して鉄道を残してきたけど、それは間違ってはいなかったんだ。」と思っていただけるのではないか。

それが、鉄道会社が今までお世話になってきた地域住民の皆様方へ恩返しできることになる。

だから就任以来、地域の広告塔になることを目指してきているのですが、鉄道会社と地域住民とのそういう関係が、いすみ鉄道だけでなく、おそらく全国どこでも国鉄のローカル線を引き継いだ第3セクター鉄道の沿線にはあるのではないかと思うのです。

 

今、地方の力が問われていますが、少なくとも第3セクターのローカル鉄道が走っている地域は、そのこと自体が、地域に力があるということを示しているのではないでしょうか。

力があるというのはお金の量ではありません。ある意味で地域の成熟度というか、方向性を定めて力を合わせて進んでいく力のようなものだと思いますが、若輩者ゆえ、うまく説明できないのが歯がゆいところであります。

 

鉄道の日に当たって、今日はそんなことを考えてみたのであります。

 

1973年4月 国鉄木原線上総中野駅

キハ11と中学1年の私。

 

で、同じ場所。