昭和52年8月。
勇払原野のお立ち台を同級生の木村君と一緒に訪ねた私は、蒸気機関車現役時代にここで繰り広げられた光景にひとしきり思いを馳せると、再び植苗駅に戻り、千歳線のディーゼルカーに乗って苫小牧へ戻りました。
旅行といっても行く宛てのない旅。
前の日に白老のユースホステルに泊まっているので、節約のために今夜の宿は札幌発の夜行列車と決めていて、それまでの時間つぶしです。
苫小牧駅の構内にはこんな看板が。
SLホテルというのは使われなくなったSLの後ろに、これまた使われなくなった客車や寝台車が数両連結されたもので、旅人達の簡易宿泊施設として全国あちらこちらに見られました。
当時の物価だと、ユースホステルの1泊2食付が確か1500~2000円。国民宿舎が3500円ぐらいでしたから、この看板を見たときに
「1泊1300円か。安いな。」と思ったことを記憶しています。
ただし、「当駅より富内線日高町駅下車」とあるように、苫小牧から日高本線に乗って、鵡川から分岐する富内線の終点まで3時間もかけて行かなければなりませんから、気が遠くなるような思いがしました。富内線は日高の山の中深く分け入っていくローカル線で、全長80km以上の長大路線でしたので、とてもじゃないけれど行けません。
このSLホテルがいつごろまで存在したか知りませんが、インターネットで検索しても、日高やまびこ列車も富内線もほとんど出てきませんから、今となっては遠い昔の世界となってしまったのでしょう。
鉄道と引き換えに運転開始した鉄道代行バスも、はるか昔に廃止されてしまったようです。
苫小牧駅の跨線橋からターンテーブルと給水塔が見えました。
2年前に来たときは、同じ場所にD51が待機しているのを見たのですが、ターンテーブルも給水塔もすでに無用の長物となっていました。
後ろに見える長崎屋へ行ったかどうかの記憶はありませんが、しばらく苫小牧で時間をつぶして、千歳線の急行列車で札幌へ向かいました。
今では信じられないことですが、札幌駅前には夕方になるとリュックサックを背負った若者たちがたくさん集まってきて野宿をしていましたが、私たちはなんとなくその仲間に加わることがはばかられたので、函館行の夜行列車の中で夜を過ごそうと考え、21時ごろまで名画座かどこかで時間をつぶして、列車に乗りました。
前にも書いたと思いますが、札幌から函館へ向かう山線経由の各駅停車の夜行列車が当時は走っていて、札幌駅で待っていると、実はこの列車は旭川から来る列車で、列車番号が変わり、行先も函館行となる列車で、ということは旭川から先客が乗って来ていて、席を探すにも難儀するほどの混雑ぶりでした。おまけに、編成は8両ぐらいの長編成なのですが、そのうちの5両は荷物車と郵便車で、客車は3両だけ。人間様よりも荷物や郵便の方が大切な列車なのには憤慨しました。
当時の山線は道路の整備が進んでいませんでしたので、この夜行列車は札幌から倶知安、ニセコなどへ郵便や翌日の朝刊を運ぶ役割があった列車で、駅に着くたびに眠い目をこすってホームを見ると、リアカーを引いた駅員さんが列車から下ろしたばかりの新聞や郵袋を運んでいるところを各駅で見かけました。
この夜行列車で札幌→函館と宿代わりに利用した翌日は、函館付近で1日を過ごしたのち、何と函館→札幌と今度は逆向きの夜行列車に乗車して、夜行車中泊2連泊しましたが、「すずらん」という夜行の急行列車が室蘭本線経由で走っていたにもかかわらず、わざわざ山線経由の各駅停車の夜行列車に2晩も連続して乗車したのは、私自身の山線に対するあこがれと畏敬の念だったのではないかと思います。
当時は同じ旧型客車でも、急行用と普通列車用では車両が違っていて、急行列車の方が背もたれもふかふかして乗り心地が良かったのですが、そんなことはどうでもよくて、山線といえば「C62ニセコ」というのが私たちの世代。ついに現役時代を見ることはできませんでしたが、叶わなかった思いを夢枕に見ようとしていたのだと思います。
深夜の長万部で機関車を交換する夜行列車。
カンテラの誘導で連結するシーンを写した1枚です。
▲木村君(右)と私。
今思えば、時間は無限にあったけど、お金がまったくなかった17歳の夏休み。
ということになるのでしょうね。
キミマロ風に言うと「あれから40年!」ということになりますが、おじさんにとっての青春は、つい昨日のことのようなのでございます。
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