昭和の残照

5月6日のブログで、新宿駅に停車している「あずさ2号」の写真を掲載させていただきました。
それがなかなかご好評をいただきましたので、ここ数日、私のFACEBOOKページで、「昭和の時間」として1970年代に撮影した写真をお届けしています。
(FACEBBOKはログインしないと読めない方がいらっしゃると思います。どうぞご了承ください。)
最近ほとんど自分の時間がないので、大量にある昭和のネガをなかなか紐解くことができないのですが、それでも時々スキャナーにかけてみて、パソコンに表示してみると、あいまいながら撮影したときの記憶がよみがえってくるから不思議です。
私は、小学校高学年の時から、板橋の家から千駄ヶ谷の英語塾や、代々木の学習塾に通っていました。
わざわざ遠くの塾へ行きたいと言ってた理由は、もちろん公認で電車に乗れるから。
とにかく電車に乗りたい一心で、ときにはカメラをカバンに忍ばせて塾へ出かけるのです。
たいていは夕方の教室なんですが、日曜日は朝9時ごろからの教室で、その時は、少し早めに出たり、終わってから遠回りして帰ってきたり。先日の「あずさ2号」はまさしく塾へ行く途中に新宿駅で撮影したものです。
つまり勉強などまるで関係ない塾通いでしたから、同じ授業を受けながら、東大一直線で今では経済産業省のお偉いさんになっている幼馴染のケースケくんとは比べ物にならない人生を歩んでいるわけですが、塾で教わったことは頭の中に何も残っていないけれど、こうしてコツコツ撮っていた写真はしっかり残ってくれているのを見ると、やっぱり自分の人生はこれで間違っていなかったんだと思うのであります。
ということで、FACEBOOKの私のページに掲載している昭和の写真をご覧いただきたいと思います。(枠からはみ出ておりますが、拡大版でお届けいたしましょう。)

▲東武東上線池袋駅。
各駅停車のホームから準急ホームを見たところです。
7800が停まっていますね。
その向こうは赤羽線と山手線のホームです。
私は池袋で育ったようなものですが、小学校6年生が塾の帰りにどうしてこんなアングルの写真を撮影していたのか。
フィルムが貴重だったのに。
たぶん、情景シーンなどにあこがれていたのだと思います。
だれかが「灰皿がたくさんありますね。」とコメントをくれましたが、灰皿だけじゃなくて、たんつぼも柱の根元にいくつもあって、「たんつぼおばさん」などという都市伝説がありました。
お~、きたねえなあ。(お食事中の方はごめんなさい。)

▲国鉄の赤羽線のホーム。
101系です。
これもなんでこんなカットを撮ったのか理解できません。
カップル(当時はアベック)が邪魔でしたが、電車も人も中途半端です。
昭和48年のネガですから、小6の私が56になるわけで、このお二人さんは今頃還暦をとうに過ぎていらっしゃると思われます。彼のズボンはミユキ族の名残でしょう。

▲その池袋のデパートの屋上では小柳ルミ子「歌とサイン会」なる催しが行われていて、ちょっと顔を出してみました。
私はこの方のファンではありませんでしたが、どうして屋上へ行ったのかは記憶にありません。
私が大ファンだったのは片平なぎさで、やっぱり池袋のデパートの上で開催されたサイン会に出かけたのはこの写真を撮影した3年後のことでした。(笑)

▲で、同じネガにあるデパートの屋上から見た池袋駅構内。
まだ貨物の取り扱いが盛んにおこなわれていて、入れ換えで活気があったころです。
池袋駅には品川からDD13が入れ換え機としてやって来ていて、ファーストナンバーも見た記憶があります。
DD13の写真も撮影しておりますので、今度出てきたらお見せいたしましょう。

▲こちらは昨日FACEBOOKにUPしたら大きな反響をいただいた1カット。
富士銀行、協和銀行、新日本証券、三和銀行、東海銀行、第一勧業銀行と、並み居る大金融機関が駅前に並んでいましたが、恐ろしいことに今はどの銀行も存在しておりません。
当時の池袋は、傷痍軍人がたくさんいたと申し上げましたところ、皆様方から一晩で60件を超えるコメントをいただきました。
ちょうど画面左の第一勧銀の看板の下あたりにいつも白い服を着た傷痍軍人が数名いて、アコーデオンとハーモニカを引きながら物乞いをしていました。
私の母は、「あの人たちは国からちゃんとお金をもらっているのに、ああいうことをしているのはいけないことです。」と言っていましたが、中には戦争で肉親をなくされた方でしょうか。小銭をあげている人もいました。足元に置かれた飯盒の中に百円札や五百円札が入っていたのを見ましたが、あれは見せ金だったのかもしれません。
後になって考えてみると、当時は戦後30年ぐらいの時でしたので、戦争でけがをした兵隊さんはだいたい50歳以上の人たちだったはずですが、どう見ても若い人もいたようですから、戦争を経験した大人たちが煙たがる理由もあったと思います。
昨年は戦後70年。
そう言えば傷痍軍人を最後に見たのもずいぶん前のことになります。

▲そして本日UPしたのは都電荒川線。
ここは終点の早稲田の電停です。
区画整理のための立ち退きでしょうか。あたりは荒涼とした感じでした。
満員の電車が終点に到着すると・・・

▲中からナウいお姉さんが降りてきました。(クリックすると拡大します。)
別にお姉さんを撮ろうとしたのではありませんよ。
なんて言うのかなあ、鉄道車両に人を入れて撮ると情景写真のようになるんですよ。
ガキのくせにそんな撮り方に凝っていたのかもしれません。
たぶん、SL写真の巨匠たちの作品の中に、行商のおばさんが写り込んでいるカットなどを見つけて、「いいなあ」と思っていたんでしょうね。
それにしても早稲田の学生のダサいこと。
まあ、当時はそういう校風でしたからね。

▲その電車が折り返して三ノ輪橋方面へ出て行きました。
なんだか悲しくなりますね。
まともな写真が全然ない!
記憶によるとネオパンSSの36枚撮りが210円。現像が1本100円。
1日の小遣いが30円か50円の時代でしたから、なかなかの出費でした。
サンシャインができる前ですが、東池袋の交差点の近くにキクヤさんというカメラ屋さんがあって、数年後には缶詰のトライXを買いに行くような高校生になったのでありました。
全ては遠い昭和の残照の中なのでございます。
そうか、いすみ鉄道自体が、まさにそういう情景シーンなんですね。
だとすると、すごいですよね。