若い人たちに知っておいてもらいたいこと。

人間50代半ばになると、ふと、世の中の主流が自分たちではなくて、自分より年下の30代、40代の皆さんに移っていて、そういう若い世代の皆様方が今の世の中を動かしているということに気がつきます。
そんな時、自分が歩んできた道のりを振り返ってみると、私たちのころには当たり前だったことが、実は、今の若い人たちが知らなかったり、世の中全体が知らないまま動いていたりすることに気づくわけです。
例えば、今の時代、鉄道の列車内で何か飲み物が欲しいと思ったら、お水やお茶はペットボトルだし、アルコールが欲しい時は缶ビールですよね。
そして、若い女性も当たり前のようにペットボトルに直接口を付けて飲んでいる姿を目の当たりにするわけですが、ほんの30年ぐらい前まで、つまり、戦前派の人たちが働き盛りで、明治の人間が健在だったころまでは、瓶や缶に直接口を付けて飲むということはみっともない姿で、親から、「コップに注いで飲みなさい。」と言われていたんです。
昭和51年、私が高校生の時に上野発の特急列車の車内販売をした時の話ですが、列車の中で缶ジュースを販売するときには、必ずストローを付けてお客さんに渡していましたし、駅弁と一緒に購入するお茶も蓋が湯呑になるようになっていました。
でも、今の時代は特急電車の中で皆さん缶やペットボトルに直接口を付けて飲んでいらっしゃる。これが日本の鉄道食文化をリードしていると自負している会社のやり方で、30代、40代の人たちはそれが当たり前と思っているわけですから、私はかねてから「飲み物を飲むときはちゃんとグラスに次いで飲みましょう。」ということを実践したいと思ったのですが、これがレストラン・キハの始まりなのです。
最近では、お隣の国と実に仲が悪い関係が続いているようですが、こういう関係が数年続くとどういうことになるか。それは、若い人たちを中心に「あの国は悪い国だ。」という印象を持ってしまうということです。
例えば韓国や中国に対して、もう3年以上悪いイメージしかないのが今の日本です。
3年といえば中学1年に入学した生徒が卒業しますし、高校1年の人も卒業します。その子供にとって見たら、自分は中学時代の3年間、高校時代の3年間、「韓国、中国というのは悪い宣伝をしている国」というイメージが植えつけられてしまうわけです。
中学、高校時代というその人の人生にとって一番大事な時期に、隣国に対してよいイメージを持つことができないということは、これはとても大きなことで、そういう人たちが大人になって、この国を支えるようになったら、いったいどうなるか、考えただけでも空恐ろしいことなのではないでしょうか。
私は1980年代後半の一時期に、昨今話題になっている韓国の航空会社に勤務していたことがあります。だから、当時の日本人と韓国人がどのような感情を抱いていて、どのように付き合っていたかということを身をもって経験していますので、今の若い人たちにぜひ知っていただこうと、今日は当時の韓国の話をしたいと思います。
1980年代といえば戦後40年のころですから、戦争の記憶がある人たちがまだ50代にもたくさんいました。
私の上司である空港支店長は韓国人でしたが、とても日本が好きで、日本人や日本文化に対して常に敬意を表している人でした。その理由は簡単で、支店長は中学3年生まで日本人として、日本の教育を受けてきた方ですから、日本がいなくなった後の朝鮮半島がどうなったかということもすべてご存じで、もちろん普段の会話も流ちょうな日本語で、当時まだ20代の私は、支店長から怒られるときは、なんだか自分の父親から怒られているような気分になったものです。
さて、その支店長は、韓国の日本大使館に勤務されて、日韓の橋渡しのようなお仕事をされていた一人の日本人のおじいさんが帰国するときに、いつも搭乗ゲートまでお出迎えされていました。
その方は、たいてい夜8時過ぎに到着する最終便でご帰国されていましたが、支店長は自分の勤務が終わってもずっと待機して、飛行機の到着時刻になるとゲートでお出迎えをされていました。
当時の韓国の社会では目上の人が帰らないと自分から先に帰宅することができない雰囲気がありましたので、支店長が会社に残っていると課長連中も帰れない。だから、30代の韓国人の課長たちはブーブー文句を言っていましたが、遅番勤務の私はよく支店長と一緒に到着する飛行機をゲートで待っていたんです。
ある時、支店長は私に、「鳥塚、私がなんで○○さんを毎回出迎えているかわかるか。」と尋ねられました。
私は知る由もありませんから「どうしてですか?」と聞き返しますと、支店長は、「○○さんは私の中学の時の先生なんだよ。恩師なんだ。自分が今航空会社でこうしていられるのも、先生のおかげなんだ。だから恩師が帰国するときにゲートにお迎えするのは当然だろう。」
そう言われて、遠くを見るように目を細めていらっしゃられた姿を鮮明に記憶しています。
今、自分はその当時の支店長の年齢に近くなってきたわけですが、彼らの年代が日本という国に対してどのような感情を抱いていたのかは、支店長のその一言にすべて含まれているのではないかと思うのです。
ところが、30年前の時点で、韓国社会の中でこの支店長のような人たちはすでに第一線を退いていて、30代、40代の人たちが世の中を動かしていましたが、当時の30代40代の人たちは戦後派の人たちですから、「とにかく日本は悪い国だ。」という教育を受けてきていて、国の教育ですからある意味国民は洗脳されていて、戦前派の韓国人がいなくなった後の30年間は、そういう教育を受けた人たちが親になって子供を育てて、その子供たちもすでに20代30代になっているのですから、今行われている「ネガティブ・プロパガンダ」や「日本バッシング」なんてのは当然のことといえば当然なのです。
当時まだ30代だった直属の上司である韓国人の課長は、よく言ってました。
「日本の方が韓国社会よりもあらゆる面で優れています。人々の考え方もそうです。でも、そういうことは韓国では誰も言い出せないんです。」
今はどうか知りませんが、当時の韓国の新聞には2種類あって、一つはハングル文字だけの新聞。もう一つは漢字とハングル文字の両方で表記されている新聞です。
その課長はいつも漢字とハングル文字で表記されている新聞を読んでいましたので、私は「違いはなんですか?」と尋ねたことがあります。
すると、課長は、「韓国では中学まではハングル文字だけの教育です。高校、大学で漢字を勉強します。だから、電車やバスの中で、その人がどの新聞を呼んでいるかというだけで、その人の学歴がわかってしまうのです。」と話してくれました。
課長は航空会社の海外赴任者ですから、もちろん韓国社会ではエリートですが、そのエリートが当時から日本と自国を詳細に見つめ、自分の国の将来について危惧を抱いていたのが、今思えば「30年経って、やはり、そうなりましたね。」ということなのではないでしょうか。
ソウルの南に水原というところがあります。
ここには鉄道博物館があって、私は何度か訪ねました。
当時の韓国では鉄道は軍事施設でしたから、駅のホームで列車にカメラを向けていると係員に怒られた時代ですが、その鉄道博物館ならば自由に写真を撮ることができます。
館内はハングル文字だらけでなんだかわからない説明表示ばかりだったんですが、国鉄を退職したおじいさんの案内人の方がいらして、私が日本から来たと知ると、大喜びで流ちょうな日本語で保存してある車両の解説をしてくれました。
当時、韓国の鉄道博物館に日本人がやってくるなんてことはまずありませんでしたから、おじいさんは多分うれしかったのでしょう。私に向かって、自分は機関士だったこと。機関助士時代に自分を教えてくれた先生は日本人だったこと。その日本人の技術で自分は韓国の鉄道を支えてきたことなど、次から次に思い出話をしてくれたのですが、そのうち歌を歌いだしました。
「うさぎ追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川」
そして、日本人がいたころは良かったなあというんです。
自分は日本名は吉男と言って、友達もたくさんいた。
日本は山に木を植え、荒地にはクローバーの種をまいた。
その頃は本当にこの歌のように、山は緑で野兎がいたんです。
でも、日本がいなくなった後、韓国人は木を全部切って売り払って、うさぎは捕まえてみんな食べてしまった。
日本がいた時代が懐かしい。
そうおっしゃっていました。
おじいさんは、日本の情報が知りたいということで、私はその後何度か訪ねた時に、日本から週刊誌や本などをお土産に持って行きましたが、そういう人たちがいなくなって戦後派の人ばかりになると、国を挙げての「日本バッシング」が始まるのは、当時でも予測できたことなのですが、それに対して経済発展一辺倒だった両国の政府は、特段何の戦略も立ててこなかったということが、今の状況になっているんでしょう。
若い人たちは、日本と韓国は決して悪い関係では無かったということだけでも覚えておいていただきたいと思います。
(つづく)