昨日は昭和47年(1972年)に千葉―銚子間で走ったC57-1が引く鉄道百年記念列車のお話をさせていただきましたが、千葉県内では昭和44年まで蒸気機関車が引く列車が走っていました。
当時は総武快速線が走り出す前ですから東京地下ホームはありませんし、京葉線なども影も形もありませんでしたから、千葉方面への列車は両国駅を起点としていて、今でも一部残っていますが、両国駅の低いホームからディーゼル急行や蒸気機関車に引かれた列車が発着していました。
それ以外の列車はというと、黄色い(茶色い)総武線の各駅停車に乗って千葉まで行って、千葉駅から内房、外房、総武、成田線方面に乗りかえていたのですから、当時、房総へ行くというのはとても遠いところへ行くことだったのです。
さて、両国駅の低いホームですが、当時は今と違ってホームが何本もある広い敷地で、下の方には機関車の駐泊施設のようなものもあり、とても大きなところでした。
今では総武快速線のトンネル入口があって、国技館やら博物館やらができていますが、あの辺り全体が両国駅で、もちろん貨物の設備もあり、日通の黄色い車が一杯停まっていましたし、駅前には都電が走る交通の要衝だったわけです。
ということで、本日も鉄道写真家の結解学(けっけまなぶ)先生の世界へご案内いたします。
(写真をクリックすると拡大表示されます。)
[:up:] 昭和43年夏。両国駅の低いホームに並ぶキハ28の急行「そと房」と「うち房」。両国駅の敷地が奥まで広がっているのがわかります。
内房線は昭和43年に木更津まで電化。昭和44年7月には千倉まで電化されましたので、この昭和43年はディーゼル急行「うち房」最後の夏。
もちろん、旧型客車をC57やC58が牽引する海水浴臨時列車もこの夏はまだ大活躍していました。
[:up:] 錦糸町のホームから見た車庫。
錦糸町には客貨車区があって、総武線のホームからよく見ることができました。
今は総武快速線のホームや電留線、ホテルなどやデパートが立ち並んでいますが、あの辺り一帯が貨物駅や車両基地になっていたのです。
この車庫から線路は総武緩行線の下を両国まで続いていて、両国発着の列車の車両基地になっていたのです。
[:up:] 夜の錦糸町駅前。
歩道橋の上から総武線のホームを見た所です。
ディーゼル急行が通過していきます。
下には都電の電停があり、当時もにぎやかな場所でしたが、今から見ると静かですね。
このガードの向こうには踏切があって、入換をするSLを見るには絶好のポイントでした。
総武線に沿って、亀戸方面にも川の手前まで下に線路が伸びていて、入換が始まると列車が行ったり来たりしていました。
当時の錦糸町には優等列車は一切停車しませんでしたが、総武快速線の開業で、特急も急行も停車する基幹駅へと格上げされ、更ににぎやかになりました。
[:up:] 昭和44年夏。千倉電化によって房総西線の急行「うち房」は165系になりましたが、房総東線の「そと房」はディーゼルのまま。
多客期とあって通常のキハ28に加えて旧型のキハ26まで動員されての運転ですから、内房に比べると外房方面は「なんだかなあ~。」って感じです。
何しろ165系の「うち房」は冷房車ですから。オンボロディーゼルの「そと房」は小学生だった私の目にもみすぼらしく見えたものです。
蒸気機関車が廃止され、快速電車の地下への工事が始まると、両国駅はどんどん縮小されていきましたが、「うち房」が停車するホームが仮設なのを見ると、東京地下駅への地下化工事が開始されたことがわかります。
とはいえ、DD51が引く臨時の客車急行があったりと、まだまだ両国駅は賑やかな頃でした。
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