人間というのは不思議なもので、あるきっかけでふだんは忘れていたはずのことを思い出すことがあります。
昨日、団長たちに誘われて出かけたC61。
蒸気機関車というのは、いつもは写真や映像で見ているだけですが、実際に見ると煙や油のにおい、蒸気の息遣い、汽笛の音など、「百聞は一見にしかず」そのものです。
まして、私のようなSLブームの真っただ中に多感な少年時代を過ごした人間としてみれば、40年の歳月を飛び越えて、一気に昔の記憶がよみがえってくるものです。
で、私が思い出したのは父親のことです。
昭和47年、鉄道百年を迎えた国鉄は、京都の梅小路機関区を蒸気機関車の博物館にしようということで、全国からいろいろな機関車を京都に集めました。
当時は急速に蒸気機関車が姿を消していった時代ですが、今思えば、梅小路に入ることになった機関車たちは何と幸運な機関車だったのでしょうか。
「鉄道ファン」という雑誌でその幸運な機関車たちを一堂に集めた梅小路の特集があって、私がそのページを見ていると、ふいに横から同じページを見た父が、
「あっ、Cの571だ。俺、毎日この汽車で学校に通っていたよ。」
というのです。
C571は今でも山口線で活躍している機関車ですが、梅小路に入る前は新津機関区で羽越本線で走っていました。
新小岩や佐倉にはC57がたくさんいたことは知っていましたが、C571が千葉にいたということは私は全く知りませんでしたので、
「えっ? 本当なの?」と聞き返すと、
「それまでは286とか386とかいう番号の機関車だったけど、あるとき、このCの571に変わって、それから毎日これだったよ。」とのこと。
父は昭和7年に東京で生まれましたが、戦争がはげしくなると母方の実家に家族で疎開して、そのまま高校を出るまで勝浦にいました。
おばあちゃんの実家は上総興津駅の鴨川寄りにある踏切のすぐ近くで、父は毎日鴨川まで学校へ行くときに、ギリギリで間に合わないので、踏切から線路に入って駅に向かって走るわけです。
そうすると、正面にこちらを向いて機関車が停まっている。
当然、機関車のナンバープレートが目に入る。
と、こういうわけです。
で、機関車は正面から走ってくる制服姿の父には目もくれず、ボーッ! と汽笛を鳴らして走り始める。
父は動き始めた汽車に飛び乗って友だちと合流するという次第です。
こんな話をしてくれた父ですが、あるとき大失態をします。
それは、東京駅で当時の急行「出雲」に乗り遅れた時のことです。
山陰の安来に出張するということで、私も母と東京駅まで見送りに行きました。
そうしたら、時間に大らかだった父は、いつものようにのんびりとしていて、東京駅に山手線が着いたのがほぼ出雲の発車時刻。
ホームを駆け上がると、乗るはずの出雲はゆっくりと動き始めているのです。
当時は客車列車ですから、走行中もドアが開けっ放し。
父はC571の列車で通っていた当時のように「じゃあ行ってくるから。」とホームを走って列車に飛び乗ろうとしました。
と、その時、「お客さん、危ないからやめてください!」と駅員さんが父を後ろから抱きかかえるようにして止めたのです。
小学校3年生だった息子の目の前で、超格好悪い姿。
結局、どうしたのかというと新幹線で小田原まで先回りして、小田原で出雲に乗り継いだのです。
ちあきなおみの「喝采」という名曲があります。
「いつものように幕が開き・・・」という歌。
その歌詞の中に
「動き始めた汽車に、一人飛び乗った」という部分がありますが、今の人たちは理解できないかもしれませんね。
走行中の汽車から落ちるなんてことは、自分の責任だった時代が百数十年続いたわけですが、いつの間にか、全部自動になって、日本人は、日常生活の中で、自分の命すら自分で守ることなく、人に守ってもらうような民族になってしまったのだと思います。
面白いですね。
久しぶりに蒸気機関車に乗っただけで、こんなにいろいろなことを思い出すのですから。
これはきっと父が私に残してくれた想い出で、こういうことが今の私の原動力になっている。
そう考えると、今生きている私たちは、次の世代にどのようなモチベーションを残し、伝えていくか、ということがとても重要なことだと思えるのです。
20年30年後に活躍する人たちの少年時代の思い出を作ってあげるのが、私たち大人の義務ではないでしょうかね。
C61、ありがとう。
私の書棚に眠る鉄道ファン1973年1月号。ちょうど40年前のこの号は梅小路蒸気機関車館の特集号でした。
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