悩んでいる皆さんへ

今のように世の中たいへんな状況になると、悩んでいる人がずいぶん多くいるんだろうなあと思います。
自分自身を振り返ってみても、10代後半ぐらいからいろいろ悩んできたことを思い出します。
義務教育を終えて高等教育に移るころになると、思春期というのでしょうか、とにかくいろいろ悩み始める。
勉強のこと、職業のこと、恋愛のこと、将来のこと、人生のことなどなど、人間であれば、その時々で様々な悩みを抱えて生きているのだと思います。
私も、「真理とは」などと考えて、デカルトやキルケゴール、カントなど、まあ、大学生であれば当たり前といえば当たり前ですが、いろいろ読みました。
「純粋理性批判」などは何度も読み返してみたり、中原中也の詩集を常に傍らに置いていた時期もありました。
そして解ったことはといえば、結局、自分という人間は、いろいろ悩んでいるとはいえ、その悩んでいること自体が堂々巡りで、難しいことを考えたり理解したりするのは苦手だということ。
いろいろな書物をむさぼり読んでいた時代の一番大きな収穫というのは、「悩んでいるのは俺だけではないんだ。」ということに気づいたことでした。
古代アリストテレスからはじまって、中世、現代にいたるまで、みんな悩んできたんだなあ、ということに気が付いて心が少し軽くなりました。
口の悪い先輩に言わせれば、「お前もはしかに罹ったか。」ということ。
確かに人生にはある時期そういう時があるようです。
私の場合は、ませていたようで、10代後半から20代にかけての比較的早い時期に「はしか」に罹りましたが、人によってはその時期をすんなり過ごしてみたものの、30代~40代になって初めてこの「はしか」に罹る人もいる。
そうすると、「はしか」ですから、大人になればなるほど重いわけです。
そしてさらに悩みを深くしているのは、「今さらこんなこと人に相談できない。」ということでしょうね。
こちらからしてみれば、「おお、君もそこに気づいたか。」と大歓迎なのですが、本人としては何しろ初めての経験ですから、人に打ち明けることもできず、さらに悩むわけです。
重くて深い悩みがそこに誕生するのです。
だから、悩んでいる人は、このまま行ったら自分は死ぬのではないかと、真剣に悩むわけですが、でも、今では腹も出て、髪の毛が薄くなったおじさんだって、「自分はどこから来て、どこへ行くのだろう。」何てことはさんざん悩んできたのですから、その悩みはそんなに深くもなければ重くもなくて、おぼれると焦っているけれど、気が付いてみたら足が着く深さで、「な~んだ。」という結果が待っているのです。
カントの「純粋理性批判」(第一批判)など、何度も何度も読み返してみてもなかなか理解できない。ていうか1ページ当たりの内容が重すぎてなかなかページが進まない。
そのうち眠くなって、気が付けば朝になっていて、そして気付くのは、
「人は夜と朝では考えることが違う。」ということ。
そんなことを何度も繰り返しているうちに、夜考えることと昼間に考えることを分けて考えられるようになればしめたものです。
そんな私を相談相手にちょうど良いと思ったのか、30代のころは職場の女性からいろいろと悩みの相談を受けました。
そういう悩み相談というのは人に聞かれるのが嫌だから、必ずといって良いほど2人きりの時を待って「実はね、鳥塚さん」と切り出してくる。
綺麗なお姉さんが2人きりの時を狙って「実はね」とくるのですから、こちらも身構えるのですが、何のことはない、愛の告白ではなく、お悩みのご相談なのですから、私としては「勘違いしないでね。」と言われているようでちょっと肩透かしを食らう訳です。
例えば、あるキャビンクルーからは、彼がニューヨークに転勤になって、電話デートしかできなくなっちゃったけど、どうもうまくいかない。
こちらがロマンチックな気分になって電話すると、向こうは出勤前でそれどころじゃなく、向こうから電話がかかってくるときは、逆にこちらが忙しい。
そりゃそうだよね、時間が反対なんだから。
人間は昼間と夜とでは考えることが違うのです。
悩んでいる皆さんへ。
心配いりません。
みんな同じですから。
そして、いよいよになったら、いすみ鉄道に遊びに来てみませんか。
場所を変えて、気分を変えてみると、きっと違うものが見つかりますよ。
そうだ、今度、いすみ鉄道お悩み相談列車でもやりましょうか。
特に恋愛相談。
最近はまともに恋愛もできない人がいるみたいですから、悩むぐらいがちょうどよいのです。
大切な人ができれば、人にやさしい人間になれますからね。
おっとその前に、さっき言った中原中也の詩集と、鴎外の「雁」と、漱石の「それから」ぐらいは読んで来てくださいね。
これが今朝、私が考えたこと・・・です。