私の著書 いすみ鉄道公募社長 危機を乗り越える夢と戦略 には高校2年生の夏休みにバックパックをしょって北海道へ旅行したことを書きましたが、その時の旅行の詳しいお話です。
八ヶ岳へ文化祭の8ミリ映画を撮りに行ったのが7月下旬。
そして8月に入ると、私は同級生の木村君と一緒に上野駅から急行「八甲田」に乗って北海道へ旅立った。
この旅行は道南周遊券を片手に旅する約2週間のコースで、周遊券を持っていれば追加料金なしで急行列車の自由席に乗れたから、特別に料金がかかる特急列車や寝台車などは一切利用しないというポリシーで、旅の始まりも当然硬い座席の夜行列車を利用した。
そして、約12時間かけて「上野発の夜行列車」で青森に着くと、青森市内をぶらついた後、お昼の連絡船で函館へ渡った。
連絡船の青森―函館間の所要時間は約4時間。
大揺れの津軽海峡を越えて夕方に北海道へ上陸すると、駅前食堂で夕食を食べてから、函館山へ登って夜景を見て、函館駅の待合室に泊まった。
今の函館駅からは想像もつかないが、青函連絡船が発着していた当時の函館駅は24時間営業で、いつもお客さんがたくさんいたし、駅前にも人があふれていて、本州へ帰る人たちが連絡船に乗る直前に大挙してお土産を買っていたから、朝市もお土産物屋さんも大賑わいだった。
1泊目が急行「八甲田」の座席、2泊目が函館駅の待合室のベンチで体が痛かったが、山の中の無人駅での「駅ネ」ではないので、売店や自販機、トイレやテレビもある大きな駅の待合室は何かと便利だったし、こうすれば宿泊代がかからないのはありがたかった。
このときの旅行の目的の一つは、2年前まで走っていた蒸気機関車の残り香を探しに行くこと。
木村君は鉄道ファンではなかったけれど、当時の高校生は「鉄」でなくてもSLには興味があるのが普通だったから、「面白そうだな、それで行こう」と同意してくれた。
夜が明けると函館本線の始発列車に乗って大沼で途中下車。その後、函館本線をひたすら走って、2年前まで国鉄最後の蒸気機関車が活躍していた室蘭本線(東室蘭)にたどりついた。
2年前に飛行機でやってきた室蘭本線は、こんなに遠いところだったのかと思った。
そして東京を出てから3日目の晩に白老のユースホステルで、やっと人並みにベッドで眠ることができたのだった。
ユースホステルは線路のすぐ近くにあったけれど、疲れがたまっていた私はぐっすりと眠りにおちていった。
その翌日に、日本全体を震撼させる大事件が発生することなど、その時は予想もしていなかった・・・
高2の夏 続く・・・
[:up:]汽車旅中の鳥塚君
[:up:]白老に着いた室蘭本線229列車。旧型客車の先頭に立つのはDD51。2年前までは蒸気機関車が列車を引いて同じ位置に停車していたことが、跨線橋にばい煙の煤が付いていることからわかる。蒸気機関車の列車では、ちょうど橋の下に煙突が来ていたのだ。
白老のような駅でもこれだけの人たちが乗り降りしていたのだから、当時の列車がいかに混んでいたかがお解りいただけよう。ただし、今から見るとはるかに編成も長かったけれど。
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