東京の地図を見ているとJR中央線が中野から立川まで一直線で線路が敷かれているのがわかります。
これは、明治時代に鉄道建設の話が出た際に、当時の甲州街道沿いの宿場町の人たちが、それまでの籠屋や運送屋、旅館などの商売が立ちいかなくなることを恐れて、鉄道建設に猛烈に反対したため、鉄道は街道筋のにぎやかなところを避け、当時何もなかった武蔵野の雑木林の中を一直線に建設されたことに由来します。
ところが、一旦鉄道が開通すると、時代は鉄道の時代となります。すると当然のことですが甲州街道沿線の宿場町はどんどんさびれて行くようになりました。
そこで、沿線の人たちは自分たちのところにも鉄道を敷かなければだめだということにやっと気がついて、甲州街道に沿って後から建設されたのが今の京王電鉄です。
同じようなことは千葉でもありました。
総武線の電車は小岩を出て市川に向かうと大きく右へカーブして江戸川を越えます。ここから、西船橋までの線路は中央線と同じように一直線に進んでいます。
これも当時街道筋の住民たちが鉄道建設に反対したために、仕方なく人家のなかったところに線路を敷いたことに由来します。今、住宅が密集し、たいへん賑わっているJRの線路沿いも、当時は人けがない畑や雑木林だったのでしょう。
沿線の人たちは汽車が大きな音を立てて走ると、牛がお乳を出さなくなるとか、鶏が卵を産まなくなるなどと言って、鉄道建設に反対したのですが、一旦鉄道が走り始めると、世の中の流れは当然そちらに向かいます。
鉄道沿線に新たに人が住み始め、商売が活発に行われるようになり、経済が発展します。
そして、かつて繁栄を極めた旧街道筋の宿場町がにぎわいを失うのです。
そうなってさびれ始めた旧街道筋が、やっぱり鉄道が必要だと誘致したのが今の京成電鉄です。
こういう経緯があるから、旧国鉄のJRは線路がまっすぐで、後から敷いた私鉄が街道沿いにくねくねと曲がっているように地図では見えるわけです。
中央線や総武線だけでなく、こういうところは全国的にも見られますが、あとからでも並行して鉄道を敷くことができたところはまだ救われましたが、鉄道から取り残されてしまった場所もあります。
千葉県の流山市などはその典型的な例です。
当時の流山は利根川水系の物資を江戸に運ぶ集積場として、水運と陸運の接点として大変なにぎわいを見せていました。船で運んできた荷物を馬車に積み換えて江戸へ向かうところですから、当然、鉄道が来るとこういった商売がダメになります。だから、鉄道が通ることに対して猛反対が起きました。
結果として常磐線は流山を避けて松戸から柏へ抜けたわけです。
今思えば何とももったいない話ですね。でも、こうなってはもう後の祭りで、取り残された流山は出資者となって流山電鉄(流鉄)という短い私鉄を常磐線の馬橋へ伸ばす以外に道はなくなったわけです。
今から80年も昔の話ですが、1970年代に武蔵野線は通ったものの、東京へ直結する鉄道としては近年やっとつくばエクスプレスが市内の一部をかすめるようになるまで待たなければならなかったのです。
新しい時代の流れが起きると、それまではやっていた商売が、そのままではやっていかれなくなります。そんな時、地元の人たちは、「今の商売」を最優先して考えますから、「将来の発展」をつかむという大きなチャンスを逃すことが多いのです。
地元の代表と呼ばれる人々は「今の商売」で地位を築いた人たちがやっていますから、当然、今の商売にこだわります。新しい時代の流れや、お金の動きがわかったとしても、なかなか上手に振舞えないのでしょう。
そして、そういうチャンスを何度か逃すと、地域が衰退していく結果が待っているわけです。
羽田空港の国際線が開港し、新しく羽田が日本の玄関口としての機能を持つようになりました。こうなって初めて成田空港も事の重大さに気付いたようです。
成田近辺の人たちは、それまでどちらかというと歴史の被害者のような感覚で、過去の経緯にこだわるばかりで、将来の利益については話題にもしてきませんでした。開港から数えて32年ですから、建設から見るともう40年も「国に強引に空港を造られた」という意識だけで、空港がどれだけ地域経済に貢献するのか、飛行機が外国から来るということがどれだけありがたいことかということについては誰も考えてこなかったのです。(考えていたかもしれませんが、口に出すことがタブー視されていたのかもしれません)
長年実際に空港で働いてきた私の目で見ると、世界の航空輸送需要とは全くかけ離れたところで議論が行われていたように思えてなりません。
つまり、お客様である航空会社や旅客の利便よりも先に、自分たちの都合ばかり前面に押し出して、外国からみると「内輪もめ」が続いてきたのです。
今回の羽田国際化はそのような考えに一石を投じた形になります。
成田空港周辺の地域が、雇用や経済面でどれだけの効果を空港から得ているかということを主体に考えなければならないということを、開港から32年たって初めて気が付いたというか、今までタブーとされてきた問題に正面から取り組まなければならなくなったのです。
私は成田空港に20年以上勤務してきた人間ですから、世界中の空港の中で成田空港には一番愛着があります。羽田がどう発展しようが、成田空港には日本の玄関口として今後も君臨してもらいたいという気持ちでいっぱいです。
成田空港の現場でどのようなことが問題になっているか、皆様にもぜひ知っていただきたいと考えています。
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