寒いですね。
なんだか急に寒くなった感じがします。
皆様の地域はいかがですか?
昨日の続きですが、古い時刻表を見ています。
1978年9月号。
私が18歳、高校3年生の時のものです。
昨日は信越本線の荷物列車の話をしましたが、今日は北海道へ渡ってみましょう。
当時の私は北海道が大好きでしたので、北の方面ばかりに目が向いていました。
信越本線に乗ったのは夏休みに食堂車でバイトしていた時の「白山」ぐらいで、あとは市電がなくなる京都へ何度か行った以外は、ほとんど北紀行でした。
札幌を中心に道内各地へ向かう夜行列車の編成表です。
上から4つが夜行列車ですね。
「宗谷」は函館から稚内へ走る気動車急行。
函館を11:50に出て、稚内には22:45に到着するロングラン列車でした。
さて、上から4つの夜行列車ですが、編成を見ると当時の道内の交通の状況がわかります。
まず、一番上の「すずらん」ですが、札幌と函館を結ぶ区間は北海道の大動脈ですから、昼間は特急列車がたくさん走っていました。
特急列車の寝台は当時の北海道にはまだありませんでしたので、寝台を連結した夜行列車は急行列車でした。
編成を見るとA寝台、B寝台、グリーン車、普通車指定席、普通車自由席とフルコースの編成です。
利用者は自分の懐具合に合わせて乗る車両を選べるというのも大動脈らしいですね。
もっとも、お金のある人たちは当時は食堂車が連結された特急列車に乗るのが当たり前でしたから、夜行急行は当時からうらぶれた雰囲気がありました。
2段目の「狩勝」は札幌と釧路を結ぶ列車です。
編成を見ると普通車指定席が2両。そしてA寝台が1両。残り6両がB寝台車です。
普通車の自由席が連結されていません。
周遊券で旅行するような貧乏な学生連中は相手にしませんよというかなり敷居が高い列車ですね。
編成表を見ただけで風格を感じます。
3段目の「大雪5号」はというと、A寝台、B寝台、グリーン車、普通車指定席、普通車自由席が連結されているフルコースの編成ですが、よく見ると3号車がA寝台とB寝台の合造車になっています。
形式で言うとオロハネ10と言ってなかなかの珍車で、車両の真ん中にドアがあって、入って右がA寝台、入って左がB寝台というような構造になっていました。
ではなぜこのAB寝台合造車なのかというと、1両丸々A寝台にするほどの需要がなかったということですね。
そして4段目の「利尻」になるとB寝台のみでA寝台は連結されていませんから、つまりどういうことかというと、釧路、網走、稚内を比べた場合、経済規模からいうと釧路が一番大きく、次いで網走、そして稚内が一番小さかったということになります。
なぜならばA寝台はもちろん、B寝台の数を見ても釧路が一番大きくて、普通車の自由席など連結するぐらいなら、その分寝台車を繋いだ方が良いということがわかりますから、札幌-釧路間はお金持ちが多く利用していたということになります。
列車の編成表を見ただけでこんなことがわかるのですから、時刻表というのがいかに社会学を学ぶのに適した教材かということがわかりますね。(笑)
でも「狩勝」が貧乏人を寄せ付けない列車であるとすれば、お金が無い旅行者たちはどうしていたのでしょうか?
その答えがこちらです。
小樽発釧路行の「からまつ」という列車があります。
この列車にはB寝台が2両連結されていますが、これは急行ではなく普通列車です。
つまり、各駅停車に寝台が連結されていて、一駅ごとに丹念に停車して行ったのです。
私ももちろん利用しましたが、周遊券利用のような貧乏旅行者はこういう列車に乗っていたのです。
ということは、釧路というところは本当に一段格が高かったんですね。
時刻表って本当に奥が深い読み物でしょう。
こんな寒い夜は、古い時刻表を見ながら遠い北の国に思いを馳せているのであります。
何だか泣きそうですよ。
そんな私に共感していただける方は、どうぞ、こちらをご覧になってください。
「足寄1枚」
この夜行列車「かりかち」が出てきます。
私のお気に入りの動画。
泣いちゃうよね。
というようなことを7年前にも書いていたのでした。
記憶の崩壊 | 大井川鐵道社長 鳥塚亮の地域を元気にするブログ
最近のコメント