静岡に居ると最近は「新幹線60周年」という掲示をよく見ます。
1964年(昭和39年)10月1日に東海道新幹線の東京-新大阪間が開業して今年で60年。
日本の新幹線はこの10月1日で60歳の誕生日を迎えます。
その時私は4歳でしたから、新幹線開業のニュースの記憶は全くありません。ただ、世の中は「夢の超特急ブーム」で、親戚のおじさんやおばさんが遊びに来るたびに新幹線のブリキのおもちゃや、プラレールを持ってきてくれていましたので、うちには新幹線のおもちゃがたくさんあったことと、東京オリンピックでアベベが裸足で走っているのを中華屋さんの壁のテレビで父親と一緒に見ていたこと、池袋から浅草と亀戸から江戸川の今井というところまでトロリーバスが出ていて、時々乗せてもらったこと。あとは内房線の巌根の駅でC57やハチロクが引く列車を見ていたことと言った断片的な記憶しかありません。
つまり、実感がないのです。
ところがそれから10年後の1974年になると、私は中学2年生になっていましたので完全に自我が芽生えていて、時刻表が読めるようになっていたのはもちろんですが、塾の帰りに池袋駅の日本旅行に立ち寄っては「航空時刻表」なるものを手にして、それを読み解けるようになっていたのです。
1974年の航空3社の時刻表です。
当時、日本の空は完全にこの3社の独占体制で、それも国からの指導で役割分担が決められていました。
日本航空は国際線と国内の幹線(東京、札幌、大阪、福岡、沖縄のみ)。
全日空は国内線(幹線とローカル路線)。
東亜国内航空(のちの日本エアシステム、最後には日本航空に統合)は国内線のローカル路線だけということで、例えば全日空が国際線を運航したいといっても、国が許してくれないからできないという時代でした。
ではなぜ私が中学2年生の時に飛行機に興味を持ったのかというと、当時のテレビドラマで田宮二郎が日本航空のジャンボジェットの機長の役を演じる「白い滑走路」というのが大人気で、パイロットってかっこいいなと思ったのがきっかけで、それまでは国鉄の新幹線ポケット時刻表という折り畳み式の無料で配布している時刻表をもらいに日本旅行の池袋支店へ行ってたのですが、ふと見ると航空時刻表なるものが置いてあって、「どうぞお持ちください。」ということでしたので、もらって来て解読するようになったのです。
B2とかTRとか、中学生にとっては難解でしたが、すぐに読み解けるようになったのが今思っても不思議です。
で、読み解けるようになってくると、私の時刻表机上旅行が立体的になりました。
それまでは鉄道で移動するだけだった旅行が、飛行機というある意味ウルトラC的な飛び道具が使えるようになったわけで、どういうことかというと、前の晩に東京駅で見送った西鹿児島行の寝台特急「富士」が宮崎に到着するまでに、次の朝羽田から宮崎に飛べば先に着けるわけで、これは本当にウルトラC的な技でした。(実際にはやってませんけど)
何しろ1974年はSL全廃の前年で、まだ北海道や九州へ行けば末端路線でSL列車が走っていて、例えば日豊本線では最後のSLけん引急行列車と言われた「日南3号」や、石北本線ではこれも最後のSLけん引急行(実際には急行くずれの普通列車)「大雪5号」などが走っていて、つまり、飛行機に乗って行けば日帰りでも東京からSLに会うことができたという、そういう年でした。
でも、実際の私はもちろん飛行機に乗って北海道や九州のSLに会いに行くことはできるはずもなく、房総夏ダイヤの時刻表を抱えて、いつものように勝浦のおばあちゃんちへ行くだけの夏休みでしたが、当時の房総は電化間もない時期で、わずか100㎞ちょっとの区間に、特急、急行、そして海水浴臨時の快速電車まで走っているほど賑わっていて、父の実家の民宿も大繁盛という時代でした。
そんな1974年、中学2年生だった私はどんどん立体的な頭脳に変化していきまして、相変わらず飛行機と鉄道を組み合わせた机上旅行に熱中していたのですが、夏休みが終わって9月になると、中学2年の秋ですから周囲はだんだん受験モードになってくるわけでして、私は「なんだかな~」のシラケ少年になって行きました。
なぜなら、翌年の1975年にはSLを全廃すると国鉄が発表していて、とても受験どころではない気持ちでいっぱいになってきていたのですが、そのSLが最後に残った北海道へ行くには、夜行列車と青函連絡船を乗り継いで行って帰ってくるだけで最低でも5日かかるわけで、冬休みや春休みの講習会の日程を考えても、とてもじゃないけどそんな時間をひねり出すわけにもいかず、かといって早くしないとSLが無くなってしまうし、という悶々とした中学2年の秋を迎えていたのです。
ちょうどそのころ、全日空がトライスターという飛行機を導入するということで、毎日のようにテレビCMが流れていました。
その前年に日本航空が国内線用にB747ジャンボジェットのSR型という機体を導入して、これからはワイドボディの時代と言われるようになりました。
私は1級年上の山川君という飛行機マニアの先輩に、飛行機のことをいろいろと教えてもらっていましたが、その山川君がスカイメイトという制度があって、それを使うと飛行機が半額で乗れるという話をしてくれました。
そのスカイメイトというのは、当日その便に空席があれば正規運賃の半額で飛行機に乗れるというものでしたが、私はそもそも飛行機の乗り方自体を知りませんでしたので、山川君からチェックインカウンターで搭乗手続きをする。そこで座席が決められて、その後で搭乗口まで行く。などという細かいことをレクチャーを受けながら、時刻表に書いてある空席案内の電話番号に毎日のように電話をしました。
この電話案内はテープで流れるもので、「お出かけダイヤル」と呼ばれていました。
電話をかけると、
「全日空、お出かけダイヤルです。9月20日、金曜日の北海道東北方面の空席情報をご案内いたします。札幌行は始発7時ちょうどから12時まで空席がございます。秋田行は・・・」
と自動音声で案内が流れます。
これを毎日聞いていると、曜日ごとの混雑度合の傾向がわかるようになってきて、つまり、この曜日のこの便なら絶対に空席があるということがわかるようになるのです。
こうして1974年の秋から私はお出かけダイヤルにかけまくって、虎視眈々と半額で乗れる便を探し、ついに翌1975年の春休みに、人生初の飛行機に乗って、北海道の室蘭本線へ出かけたのであります。
1975年3月 室蘭本線追分駅 14歳の私です。
何しろ中学3年になったらもうSLどころではありません。
でも、この年のうちにSLは全廃になる。
かといって、春休みだって講習会はあるし、親に北海道へ行きたいなどとは言えず。
つまり、内緒で行ったのです。
だからもちろん日帰り。
東京に住んでいたからこそできたウルトラCなのであります。
このD51465の引く貨物列車を沼ノ端で見送って、私は千歳から飛行機で羽田に戻ったのでありました。
欲を言えばせめて1泊ぐらいしたかったのですが、偏差値世代の私としてはそういうことも切り出せず、つまり14歳の完全犯罪。
結局大人になるまで両親は知らなかったと思います。
ということで、今から50年前のちょうど今頃、私は航空時刻表というものに興味を持って、勉強そっちのけで読みふけっていたのであります。
何しろ、飛行機の時刻は鉄道と違って毎月細かく変わりますし、機種も違ってきますから、目が離せないのです。
ちなみにこの航空時刻表、今から3年前の2021年に廃止になりました。
もう紙の時刻表の時代ではないんでしょうね。
「国内線時刻表 最終号」
これで私の航空時刻表趣味も過去のものになったのですが、そういう意味でも1974年という年は、私の人生にとって重要な意味がある年なのであります。
今思い出しても、14歳の中学生が親に内緒で日帰りで遠くの恋人に会いに行く旅を決行するような、そういうバカげたことをやったことは、たぶん、その後の私の人生で「なんでもやればできる。できないことはない。」という人格形成になったと思いますし、もしこれをやっていなかったら、今の私は居なかったはずで、もっとつまらない人生を送っていたのかもしれないと、そんな風に考える今日この頃なのであります。
あれから50年。
昭和の終わりから平成、そして令和と、同じ時代を生きてきた皆様の人生に幸あれ!
そして1974年に乾杯!
※追伸
ここに掲載した交通公社の1974年7月号は私の手元にはありません。
トキ鉄に置いてきてしまいました。
今、トキ鉄で国鉄時代のいろいろな急行列車の企画をやっていますが、すべてはこの50年前の1974年の時刻表が元になっています。
若いスタッフがこの時刻表を教科書としてむさぼるように読んで、ここからいろいろなアイデアを出しているのです。
1974年は、そういう意味でも今の若い人に影響が大きな大事な年なのであります。
(翌1975年3月に山陽新幹線が博多まで開業して、山陽本線や九州内の特急、急行列車が大きく変わりましたから、大阪、岡山からの九州連絡は、この年が最後の活況を見せていたのでした。)
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