51年前の今日

観光急行が復活し、レールパークが再開するとすぐに子鉄くんがやって来た。

お気に入りの「出発進行!」Tシャツを着て。

「おっ、子鉄、今度中学生か?」

そう尋ねると、「いえ、今度6年です。」としっかりとした言葉で答える。

「そうか、6年生か。」
「はい」

そんなやり取りで子鉄くんの顔を見ていると、急に思い出した。
何を思い出したかと言うと、私は小学校5年から6年になる時の春休みに初めて夜行列車に乗ったことを。

子鉄くんの目下の課題は「夜行列車に乗りたい!」ということで、でも小学生のうちはダメと言われているらしい。

だから、私は言ったのです。

「社長は小学校6年になる前の春休みに、初めて夜行列車に乗ったぞ。」とね。

それが51年前の1972年の今日3月28日。
乗った列車は東京発大阪行の急行「銀河2号」。

当時、近所に住んでた親戚のおじさんが、「京都へ旅行に行くからお前も行くか?」と言われて、もちろん返事は「YES」。
「じゃあ、どの列車で行くか計画は自分で立てて見ろ。」

そう言われて時刻表を手渡された。
それがコレ。
1972年3月のダイヤ改正号。

この時新幹線が岡山まで伸びて、「瀬戸」や「出雲」が寝台特急になったり、いろいろと鉄道の状況が変わりました。
京都へ行くという大冒険を私に任せてくれたおじさんは実にチャレンジャーだったと今さらながらに思い出しますが、時刻表と首っ引きで寝ずに考えたのが急行「銀河2号」だったのです。

もちろんその前から私は時刻表を持っていましたが、実際に旅行へ行くために使用したのはこの時が最初。
夜行列車だから、後ろの方のページにこんな絵が出ていて、とにかくワクワク。

今のように情報が多くありませんから、小学校5年の身としてはこんな図を見てとにかく創造力を働かせるしかできないのです。(この絵は復刻版の1968年10月号から)

A寝台、B寝台。
どうなっているんだろう?

おじさんに、「銀河2号に決めました。」と言ったら、しばらくしておじさんが切符を取ってきてくれました。

そしてその切符を見ると「指定席」と書かれていることに気が付きました。

「えっ・・・、寝台じゃないの?」

当然のように座席でした。
銀河2号の編成は基本的には寝台車なんですが、一番後ろに座席の車両が2両だけ付いていて、おじさんが取ってくれたキップはその後ろの2両の座席車だったのです。

まぁ、考えてみれば当たり前で、庶民としては小学生のガキが寝台に乗れる時代ではなかったのです。

でも、うれしかったなあ。

指折り数えて待ちましたから。
あと何日・・・って。

だいたい、夜の9時過ぎに電車に乗って東京駅に行くってことがまずありませんからね。
ワクワクです。

東京駅のホームで待っていると、品川方面から白い煙を吐いた電気機関車に引かれて列車が入ってきました。
おじさんが、「おっ、蒸気機関車が来たぞ。」などと冗談を言っていましたが、機関車はEF58。
これははっきり覚えてる。
白い煙は暖房用のスチームを機関車でこしらえていたからで、当時の客車は自分では電源を持っていませんでしたから、暖房は機関車から送られてくる蒸気を利用していたわけで、そういうことは後から知りましたから、電気機関車が白い煙を吐いてくるシーンは不思議でした。

寝台列車の一番最後に2両だけ連結された客車はスハフ42。
当時の客車は青い色と茶色いのとあって、形式はわかりませんが、茶色い客車は普通列車用、青い客車は急行列車用と大まかな区別があったようで、房総へ行くときは茶色い客車でしたが、青い客車に乗れるのでちょっとだけ優越感に浸れました。

東京駅を後にした列車は一路西へと深夜の東海道をひた走るのですが、私はまったく眠れない。
もちろん眠るのがもったいないというのはあるけれど、それよりも機関車の振動が激しくて、窓辺に腕を置いているとガクンと揺れた拍子に腕がひじ掛けに落ちて、ビクッとなるのです。
機関車の列車は加速減速時に連結器のたるみが衝撃となって伝わってくる。まして14両編成位の長い列車の一番後ろですからね。

でも、あの時ほどの揺れはその後も経験したことがありませんから、よっぽどへたくそな運転士だったのでしょう。

眠れないので少しだけ窓を開けて前の方を見たら、カーブしていく列車の先頭のEF58のヘッドライトが照らす闇夜が不思議な世界に見えました。

たぶん、人生初の深夜を経験したのがこの時だったのでしょう。

京都に到着した翌日は市内観光バスの中で爆睡していました。

と、51年も前のこんな記憶が、子鉄くんと会話をしていて、はっきりと思い出すのですから、子供の記憶をバカにしてはいけませんね。

つまり、子鉄くんのような子供たちが、今は子供だけど、一生懸命列車に乗って、一生懸命写真を撮って、その写真が思い出とともに残っていくんですから。

自分の周りを見渡すと、京都へ連れて行ってくれたおじさんをはじめ、51年前に居た人たちは皆さん鬼籍に入られて久しく、人間がすっかり入れ替わっていて、やがて私たちもところてんのように押し出されてさようならすることになるわけですが、次の時代に鉄道をつないでいくためには、今の若い人たちに鉄道の思い出を持ってもらわなければならないのです。

私のコレクションの中にこんな切符があります。
父が田舎から帰る時に乗ってきた列車の急行券です。
昭和46年は1971年ですから、今から52年前のものですが、よく見ると館山のスタンプが曲がっていますね。
切符の入鋏(鋏を入れる位置)も反対です。
当時は自動券売機も自動改札もありませんから係員がすべて手作業でさばいていたのですが、私から見たら適当な仕事の仕方に見えますね。

この切符を発行した人も、鋏を入れた改札口の人も、まさか自分が取り扱ったキップが半世紀もの時を経て残っているとは思わないでしょうけど、今、トキ鉄に来てくれている人たちは皆さん愛好家の方々ですから、かなりの確率で手にしたキップが保存されていくと思います。
だとしたら、ガクンガクンと振動したあの昭和47年3月28日の銀河2号の運転士のへたくそな運転もそうですが、50年経っても忘れてもらえないのですから、切符を1枚売るにしても適当な仕事はできないのではないかと私は思います。

子鉄くんのようなちびっ子たちに対しても、適当な対応をするのではなく、きちんと接してあげるべきだと、私は自分が子鉄くんの年齢だった頃を思い出して、ちゃんと仕事をしなければと考えたのであります。

子鉄くんに教えてもらったのです。

「子鉄、ありがとね。お礼に今度算数を教えてあげるよ。食塩水の問題、楽しいぞ! 算数できないと電車の運転士になれないからね。」

トキめき鉄道の次の夜行列車は4月8日。
能生駅で夜桜撮影タイムを設定しています。
お席が少し残っているようですので、ぜひご乗車ください。