東京地下駅50周年

このあいだ千葉のイベントへ行くときに総武線快速電車で驚いたのはグリーン車に列ができていること。

まだ帰宅ラッシュが始まる前の時間帯。
お客さんも特別な出で立ちではなくて普通の人たちが並んでいるのです。

物価高で生活が苦しい。
給料は上がらない。
全部政治が悪い。
何とかしろ。

選挙の前にはそんな話があちらこちらで聞かれましたが、じゃあこの行列は何なのか?
そう思わせる光景です。

ホームにはスイカ用のグリーン券の販売機がありまして、それも3台も。
お客さんが途切れる瞬間を待って撮影したんですが、とにかくひっきりなし。
この券売機は液晶画面に行き先をタッチして買うんですが、私は千葉まで。約40分間の着席を求めて780円也を投資したのでありますが、皆さんどこまで行くのだろうかと見ていると半分ぐらいの人が船橋か津田沼。
せいぜい20数分の乗車時間です。
その時間に780円を払うって、サラリーマンならお昼一食分じゃないですか。

まぁ、スイカだから、お金を払っているという感覚が弱いのかもしれませんが、それにしてもこういう光景を見ると、本当に景気が悪くて生活に困っているのだろうかという疑念もわくわけで、つまり、二極分化なんでしょうね。
だからより根が深いのかもしれませんが、考えるまでもなく横須賀線には戦前からグリーン車が連結されていたのでありまして、当時の日本は全体的に貧しかったものの、横浜、鎌倉方面はある程度裕福だったわけで、そういう地域が今では千葉や茨城方面にも広がったということなのでありましょう。

では、そのきっかけとなったのはいつかというと、ちょうど今から50年前の1972年の今日7月15日。
東京駅のこの地下ホームが開業して、総武快速線が走り始めた時であります。

当時は横須賀線と直通運転はしていませんでしたが、いずれ横須賀線とつながるようになるということで、横須賀線にはグリーン車が連結されていましたので総武快速線にも当然のようにグリーン車が連結されました。
でも、当時はさんざん悪口を言われたものです。
「千葉へ行く電車にグリーン車など必要ないだろう。」
とね。

何しろ、東北線にも高崎線にも中央線にも通勤列車にグリーン車など無い時代でしたから、どうして千葉へ行く列車にグリーン車が必要なのか。
誰もがそう思うわけでして、なぜなら颯爽とデビューした快速電車ではありますが、そのたった2~3年前までは両国駅から蒸気機関車が煙をモクモク吐きながら引っ張る冷房すらない列車だったのですからね。

秋葉原から出る総武線が走る東京の城東地区というところは、山の手の世田谷や杉並に比べたら所得が低く薄汚い所でしたし、その先の千葉というところはド田舎でしたから、千葉へ行く汽車はなんだか貧乏くさくて、子供心にイヤだったんです。
そこに最新型の快速電車にグリーン車ですからね。
子供心に私の目にも不釣り合いに映ったのであります。

50年前の鉄道ファン。
今千葉の家に戻ってきていますから、こういう本がサッと出てくる。(笑)

では、なぜこんな新型車両を導入したのかというと、東京地下駅を含む両国までの地下区間は国鉄始まって以来の地下鉄区間として開通したものですから、耐火基準などいろいろな基準が厳しくなっていて、同じ形式の電車でも今までの113系は走ることができない。だから新車でそろえたのであります。

特急列車も然り。
この183系電車はそれまでのボンネット型と違って正面が開くようになっている。
なぜならトンネル内ですから緊急事態にはドアを開けて横に逃げることが難しいため、正面に扉を設けなければならない。そのために新しく作ったということなのです。
新しくしたのはそれだけではありません。
トイレも新しくなりました。

それまでの国鉄の列車は基本的にはトイレはすべて線路に垂れ流していたんですが、地下区間で垂れ流したら大変なことになるということでタンク式にしたんです。
これも画期的でしたよ。

ということで千葉の鉄道に新時代が始まったのが実は50年前の今日なのであります。

でもって、その鉄道ファン誌のページをめくると・・・


門司のD51。

昭和47年ですから会津でも東北でもまだSLが走っていましたが、SLは東京から遠く離れれば離れるほどたくさん残っていた。だから遠い遠い九州はSLの宝庫で、私は小学校6年生でしたのでとても九州に行かれるはずもなく、「あぁ、俺も九州に生まれていれば小学生でもSLの煙を浴びることができたのに。」とうらやましく思ったものでした。

地方の皆さんは東京生まれで東京育ちの私のような人間を見るとうらやましいと思うかもしれませんが、東京の人間としてはそういう意味で地方がうらやましかったのであります。

さて、その鉄道ファン誌のページをさらにめくると・・・

上京したクビキのコッペル!

そう、ちょうどこの時から頸城鉄道で走っていたコッペル2号機が埼玉県の西武山口線にやって来て運転開始したのであります。

何しろ天下の鉄道ファン誌がカラーで特集するぐらい大事件だったのがくびきのコッペル。

くびきの皆様方はそんな大切なものが今地元に保存されているということの価値を知らないと思いますが、小学生の身として私は九州や北海道のSLにはなかなか行くことはできませんでしたが、自分の家から日帰りで行かれるところにコッペルがやってきてくれたものですから、数えきれないぐらいに足しげくコッペルに通ったのであります。

だから、今、上越に居て、身近にコッペルが大切に保存されているということは私にとってはとてもありがたいことなのでありまして、何しろ50年前に足しげく会いに行ったガールフレンドが、今でも当時と変わらぬ姿で大切にされているのでありますから、ありがたや、ありがたや、なのであります。

人間の女性なら50年前のガールフレンドには絶対に会いに行ってはいけませんが、私は今でもことあるごとにコッペルに会いに行くのです。