先日、納涼急行に高校の時の同級生が乗ってくれたという話をしました。
夫婦で乗ってくれて、夫婦2人とも同級生ですから45年も前の私を知っている貴重な存在でもあります。
私がふつうにスタッフとしてお料理を運んだりお酒を運んだりと車内を歩き回っている姿を見て、
「お前さあ、何でそんなに働いてるの? 社長だろ?」
と不思議そうな顔で訪ねてきました。
まぁ、60過ぎているわけだし、別に私が働かなくても納涼列車はきちんと動きますからね。
「ごめんね。せっかく来てくれたのに大してお相手もできなくて。」
私はそういって3両編成の車内を歩き回りました。
その時に思い出したんです。
確かに昔の私はこんな人間ではなかったなあと。
自分から動き回って、自分でお客様と接触して、おもてなしをする。
別に私の趣味ではありません。
でも、仕事だから仕方なくやっているわけでもありません。
昔の私は、適当に手を抜く人間でした。
たいていのことは7~8割も力を出さなくてもできました。
自分で言うのもなんですが、スポーツと音楽以外は。
勉強もちょこちょこっと机に向かえばそこそこの成績でしたし、多分何をやってもソツなくこなす、そういう人間でした。
教習所に通ってもオーバーすることなく規定で免許を取りましたし、飛行機に乗っても、戸惑いや苦労はありましたが、15時間でソロに出て、教官から「空軍の訓練生と同レベルだぞ。お前、ファントム乗るか?」と言われる状態でした。
多分、45年前の私を知る同級生にとっては、私という人間はそういう人なんでしょうね。その私が汗かきながら、見かけの割には身軽にせっせと動き回って働いている姿は、きっと不思議に見えたのでしょう。
私の人生はそれほど順調だったわけではありませんが、それでも20代の頃に航空会社に入ることができて、ありがたいことに50近くまで務めることができました。
航空会社という所は、そこそこ気が利いた人間が集まっているところですから、皆さんササッと仕事をこなしますし、問題点があっても器用に対応している人たちの集団です。
つまり、優劣付けがたく皆さんそれなりに優秀な人たちが集まっている集団なのですが、その中で私は新しい発見がありました。
それは何かというと、皆さん一生懸命に働いているということです。
7~8割の力を出せば十分仕事ができるであろう人たちが、100パーセントの力を出し切って働いている集団でした。
先輩たちが皆さんそういう姿勢で仕事をしていて、勤務時間が終わるころにはくたくたになっているのです。
空港という所は、そういう所と言ってしまえばそれまでですが、2か国語以上会話ができるような、学生時代は多分それなりに優秀だった人たちが、手を抜くことなく、一生懸命に仕事をしている集団が航空会社でした。
先輩に聞いたら「当たり前だろう。仕事なんだから。」という答えです。
別の先輩に聞いたら「常に勉強なんだよ。置いてかれるなよ。」と言います。
私は「いったい何なんだろう? この空気は。」と思いました。
私たちの時代は、外資系の会社に勤めるというのは、日本の会社特有のしがらみや面倒くさいしきたり、上下関係などがなく、ドライで、自分の仕事をきちんとやれば後はプライベートを大事にする。そういう所だと思っていたのですが、入ってみたら全く違っていました。
航空業界というのは技術革新の連続ですから、ボーッとしていたら取り残されるというのはわかりますが、そういうことではなくて、困っているお客様がいたら親身になってお手伝いするなど、本来なら関係ないことまで一生懸命に対応して、そしてくたくたになっているのです。
私は不思議でした。
よくわからなかったんです。
ちょうどそのころ、人事評価基準に新しいシステムが導入されました。
かれこれ30年近く前ですが、アプレーザルシステムと言って、KPI(最優先業務目標)というのを個人ごとに設定して、その達成度で人事評価を行うというシステムです。
その考え方の根幹をなしているのが「持てる力を最大限に発揮する。」ということでした。
人間は人それぞれ、持てる力が違います。
ある人にとってはたやすいことかもしれませんが、別の人にとっては難しいことがあります。
結果主義の外資系の会社では、100の仕事をどれだけの時間やコストで行うことができるかがその人の評価であると私は考えていました。
同じ量の仕事であればできるだけ短い時間で達成するのが優秀であり、同じ時間であればできるだけ多くの仕事量を達成するのが評価されるという考え方です。
ところが、「それは違うよ。」というのです。
人にはそれぞれ力の差というものがある。
100の力を持っている人が80の仕事をするのと、80の力しかない人が80の仕事をするのとでは、結果は同じ80でも違うんだ。
人事評価の研修でそう言われたのです。
正直、私は納得いきませんでした。
結果80なら同じだろうと。
ところが、じゃあ結果90ならどうか?と聞かれました。
100の力を持っている人が90の結果を出す。
片や80の力を持っている人が80の結果を出す。
どちらが評価されるべきでしょうか?
そりゃ、当然90を達成した人の方が上でしょう。
そう思いましたが、答えは、80の力を持っている人が80の結果を出すことの方が評価できるというのです。
同じ結果ではなくて、例えば100の力を持っている人が90の結果を出した。
片や80の力しかない人が80の結果を出した。
数字だけ見れば90の結果を出した方が評価されると思われますが、違うというのです。
なぜなら「人間は持てる力を惜しみなく発揮しなければならないから。」
100の力を持っている人が90の結果ということは、力を出し切っていない。
でも、80の力を持っている人が80の結果を出すということは、力をフルに発揮している。
評価されるのはそちらであり、それが個人個人に設定するKPIなんだ。
私はこういうことをイギリス人から教わりました。
ドライで結果重視主義の外資系の会社ですから、とても不思議でしたし、最初は納得できなかった面もありました。
俺の方が能力が上だ。
俺ならこの仕事はスイスイこなせる。
なのに俺より力のない人間が評価されるのはおかしいのではないか。
そんな感じですね。
いろいろ悩みました。
上司に対して反発もしました。
でも、そのたびに言われることは同じなんです。
「人間は持てる力を惜しみなく発揮しなければならない。わかるか、お前?」
つまり、「お前は手を抜いているぞ。」ということなんです。
お前は仕事を適当にやっている。
こんなもんで良いだろう、そう思って仕事をしている。
まだまだやることはあるのに適当に切り上げている。
他の人が困っているのに、自分が終わったから知らん顔をしている。
チームプレイができていない。
つまりはそういうことなんです。
「だったら、やってやろうじゃないか。」
私はそう思いました。
人よりも早く仕事を初めて、人よりも遅くまで仕事をする。
裏方やクレーム処理など、人が嫌がる仕事を率先してやる。
女性スタッフや後輩が困っていたら黙って助ける。
自分の休暇は後回しにして、他のスタッフの休暇を優先してあげる。
そんなことを始めました。
すると上司がニコニコしながら、「ほら、次の仕事だ。」と、さらに仕事を持ってくるようになります。
「こいつ、俺が忙しいの知っててわざとやってるな。」と思いつつも、
「了解」と一言言って黙々と取り掛かります。
やっと終わったと思うと、「はい、次の仕事。」
さらに、「今度新しいシステムが入るから、お前、本社へ行って勉強してこい。」
そんなことの繰り返しでした。
面白いもんです。
重い荷物を、「ほら、背負ってみろ。」と言われて背負わされる。
「こんな重いの無理だよ。」と思いつつ何とか立ち上がる。
立ち上がって歩き出すと、だんだん歩けるようになる。
その歩けるようになったのを見計らって、上司が「ほら、もう1つ。」と荷物を背負わされる。
「え~っ、2個も無理だよ。」
そう思うけど何とか立ち上がって、頑張って歩き始める。
そうするとちゃんと歩けるんですよ。
でもって、その姿を見た上司が「はい、もう1つ。さあ、頑張ろう。」
その繰り返しで、気が付いたら3つも4つも重い荷物を持って歩いている。
私の航空会社時代はこんな感じでした。
だから、私は今でも自分で列車に乗って、あるいは自分で現場に立って、自分でやれることは躊躇なくやるのです。
私は接客が好きでもなければ、趣味でもありません。
誰だって楽して、家で寝ていたいし、好きなところへ出かけて、楽しみたいですよ。
でも、「人間は持てる力を惜しみなく発揮しなければならない。」
この言葉が私を動かしているのです。
社長にそんなに働かれちゃ困るよ。
そういう幹部社員もいるかもしれませんが、私は自分の主義を幹部社員に押し付けるつもりはありません。
土日割り切って出てこない人もいれば、時々顔を出す人もいます。
一生懸命駅弁売りを手伝っている部長もいれば、観光列車にお客様としてお金を払って乗って、ビールを飲んでいる人もいます。(ある意味立派な仕事です。)
人それぞれ、考え方は違いますから、60過ぎのお爺さんたちに私の真似をしろとは申し上げません。
でも、若い人たちにはお伝えしたい。
「人間は持てる力を惜しみなく発揮しなければならない。」と。
こんなもんかと手を抜くなよ。
頭で考えただけでわかった気になるなよ。
人に押し付けて肝心なところで逃げるなよ。
燻っていてはダメなんです。
そうやって手を抜こうとしてもダメですよ。
適当に手を抜いている人間がいれば私にはすぐにわかるのです。
なぜなら、私自身がそういう人間だったからです。
「鳥塚、お前さん何でそんなに働いてるの?」
そう言ってくれた45年前の同級生の言葉で、こんなことを思い出しました。
適当に何でもソツなくこなしていた時代の私を知っている彼らから見たら、不思議に見えたんでしょうね。
泥臭く汗まみれになって動き回っている私が。
その言葉で、いろいろ考えることができました。
友よ、ありがとう。
▲時々登場する17歳の時の私。(爆)
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