真夏の汽車の運転席

こう暑い日が続くと水分補給が欠かせませんが、塩分補給も必要ですとテレビで言っています。

 

でも、こういう真夏の機関車の運転席でお仕事をする人たちって、いったいどうなんだろう。

今は全国で蒸気機関車が復活運転していますが、そういう機関車に乗務されていらっしゃる運転士さんたち。

結構つらいだろうなあ。

なにしろ目の前で火を焚いてるんだから。

ボイラーの中にはぐらぐらと煮え立っているお湯がたっぷり入っていて。

いきなり真夏の機関車の運転席に乗れと言われたら、きっと耐えられないだろうけど、ふだんから乗っていれば何とか対応の仕方もあるのかもしれない。

毎年夏になると、さっそうと走る蒸気機関車の運転席でお仕事をされている機関士さんたちのご苦労は、私たちの想像を絶するものだろうと思うのであります。

 

そんなことを考えていたら、私たちの大先輩の「よねのいわお」さんが、真夏の機関車の運転席での体験をお話ししてくれました。

よねのさんは、御年80を超える鉄道マンの大先輩。国鉄千葉鉄道管理局で最後まで蒸気機関車に乗務された経験を持つ機関士さんです。

 

千葉から蒸気機関車が消えたのは昭和44年。1969年ですから今から49年前。当時9歳だった私が58歳になるのですから、思えばずいぶん昔のことですが、当時、その機関車に乗って千葉県中を走り回っていらしたよねのさんの貴重な体験話を、現代の皆様方にもぜひ知っていただきたいと思いまして、本日は2つのお話をご紹介させていただこうと思います。

 

1:人生最高のビール

 

毎年今頃になると思い出します。

千葉局は全国に先駆けて気動車化した関係で、千葉局恒例の夏季輸送は、多くの蒸機列車が登場します。 蘇我機関支区は、佐倉機関区・新小岩機関区から助勤をとり、年一度のお祭り騒ぎです。当時爺(じい:よねのさんご本人)は一番若い機関士で、毎年夏場は臨時組みでした。

そんな中、佐倉機関区から毎年助勤に来るS氏は、爺ご指名できます・・・.

彼は真面目で冒険好きの機関助士で爺と馬が合いました。彼曰く毎年夏が楽しみ・・・だそうです。

C57・C58牽引の列車、C58が当たるとガッカリ。夏場はC57に限ります。

 夏の館山は水不足のため給水制限で、浜金谷の給水となり苦労しました。

鋸山隋道を70km/hで下ってきて,入駅制限50Km/h給水スタンド合致は、言うは簡単なれど、実際は非常に難しく至難の技です。此ればかりは、教え事に為らず身体で覚える技です。

 今考えると当時は良くやったものです。千葉・館山往復180Km3.5tの石炭焚いて帰着点呼を終わるとガックリ。一風呂浴びて帰りの蘇我駅前の居酒屋で飲む、生ビール・・・最高の味です。

冷たいビールが喉を通り胃袋に吸い込まれて行くのが手に取るように分りました。

 今になって見ると、あのビールの味は人生最高です。

 相棒のS氏は機関士になる前に他界しました。毎年此の頃になると当時の若いS氏が思い出されます。多分天国で当時のまま、生ビール飲んでいる事と思います。

合掌

 

2:爺の独り言

 

 夏の蒸機の運転室。

 聴いただけでも、汗が噴出、強烈な処・・・て感じ。

 其れは出発点呼終了から・・・始まります。

C12・D51・C58・C57・8620と暑い順です。

タンク機関車は運転室が完全に密閉型のため大小を問わず夏場は最悪です。

D51は開放型の運転室ですがボイラーが太く、座席がボイラーに近くて真夏に股ストーブの様です。

C58は同じ密閉型ですが、ボイラーが細い分D51よりはマシです。

C57・8620は共に運転室は開放型で、C12・D51・C58に比べると運転席は余裕が或るぶん運転が楽です。

C58のボイラーの焚口は、手動の物が存在して、C12・8620と同等焚口のリングが、真っ赤になります。

飯ごうで良く飯を炊きました。

そんな中水面計のガラスが破損しようモノなら、ボイラーに噛り付いてのガラスの交換作業。此れは最悪です。

 機関車によってボイラーのケーシング内の石綿の状態でいやに暑い機関車があります。

 先ず機関車に乗ったら其の日の風向き・・・機関士側からだと良いのですが・・・機関助士側だと最悪です。機関助士はどっちの風向きでも、逃げられるので関係ない様です。

 千葉から館山に向かう列車は昼間は海側からの風向きで、機関士側は風下となり、帰りは夕凪で無風です。

窓の扉は全開、天蓋も全開、足元の小窓も全開・・・。機関士・助士側の前扉は全閉です。

トンネルに入る時は機関士も機関助士も両手で顔を隠して座席にうずくまり、シンダー・埃の雨が静まるのを待つて徐に顔を開けます。

その間は前方注視は中断します。

投炭中の機関助士はトンネルに入った瞬間にボイラーの火炎が逆に吹き返すと上下のまつ毛が焦げて絡みつき目が開かなくなります。

 又石炭が出なくなると機関助士は運転中にテンダー上がって石炭かき寄せ作業に従事・・・汽笛合図は事故防止の為です。

 運転室は時々散水するも瞬時に乾いてしまい余り意味はありません。

 機関助士を楽させる為、カットオフを摘めて運転するとビックエンド・スモールエンドが発熱。かと云ってカットオフを伸ばす運転は、機関助士の労働強化に繋がります。ここら辺の頃合いが難しい所です。其の点電機の運転は変電所の高速遮断機を飛ばさなければ、自由に運転できて羨ましい・・・。

 

 灼熱地獄の中での、一番大変な作業は火床整理です、通称カマガ エです。動力揺り火格子装置のない機関車は、ロッキングハンドルを揺り火格子のアームに差込、横向きで操作します。前向きでの作業はハンドルが抜けた時、胸を強打するので、硬く禁止されています。暑いので焚口戸の中を確認しないと、火を落としてしまうので、火床の状態を見ながらの作業、其れは其れは大変です。落下火格子はピンを抜かずにガタガタする程度で、ピンを抜いての作業は、若しクリンカー・レンガ等が挟まってしまうのを防止する為です。

 暑いからと、機器の操作を雑に扱うと正直モノの機関車はそれなりに反応します。

 蒸気機関車はカマガエが無ければ最高に面白い機関車で人間そのものです。

 飯も食えば、糞もする、余り水を飲みすぎると腹下し、酷いときは、煙突から黒い死の雨が降る。こき使うと熱がでる・・・。一度駄々をこねたら手が付けられない駄々っ子です。丁寧に扱えば良い子です。現在新潟のC57180は動輪のタイヤの合いマークが90度もずれたとか・・・どの様な取り扱いをしたのでしょうか・・・空転か、ブレーキ扱いか、素材の不良か、一日も早い復旧を望みます。

 

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大変なご苦労をされて列車を運転されていたことがよくわかります。

そして最後は現役の後輩たちへの暖かなまなざし。

ご苦労された方ならではの心遣いのように聞こえます。

 

国鉄が何とか早く蒸気機関車というものを廃止にして、ディーゼルや電車にしようと躍起になっていたことがわかるような体験談ですね。

 

 

機関士当時のよねのさんです。

 

上の写真は「房総の休日」。

 

いすみ鉄道で私が展開してきたのは、この時代に少しでも近づこうということでした。

今、いすみ鉄道のスタッフたちは、それを引き継いで、毎週キハを走らせてくれています。

鉄道マンとしての誇りでしょうね。

 

今後、機会がありましたら、よねのさんのお話をご紹介していきたいと思います。

 

昭和の時代には、大変厳しい環境の中で、列車を運転してきた国鉄マンがたくさんいらしたということを、今の皆様方に知っていただきたくて、ご紹介させていただきました。

 

よねのさん、ありがとうございました。

暑い毎日が続きますが、どうぞお体をご自愛ください。

 

 

(よねのさんのFacebookページから、ご本人の許可を得て転載)