今から43年前の今日、昭和50年(1975年)4月2日。
私は初めて北海道の地を踏みました。
当時の私は14歳。
中学2年生から3年生になる春休みでした。
昭和50年という年は、3月に新幹線が博多まで開業し、それまでの筑豊地区に残っていた蒸気機関車が消えました。
その数か月前、昭和49年の12月いっぱいで山陰本線の下関口にたくさん残っていた蒸気機関車が消えました。
新幹線が伸びるためには、蒸気機関車のような時代遅れのものが残っていては恥ずかしいとか、けしからんとか思っていたのかもしれませんが、本州で最後まで残っていた山陰本線の下関ー米子間から蒸気機関車が消え、九州で最後に残っていた蒸気機関車が筑豊から消えました。
この時点で国鉄線上に残っている蒸気機関車は、北海道の室蘭本線(室蘭ー苫小牧)、夕張線(現在の石勝線追分ー新夕張ー夕張)だけになりました。
そして、この年の年末には、その最後に残った室蘭本線、夕張線からも蒸気機関車が廃止され、100年以上にわたって日本の鉄道を支えてきた蒸気機関車が、日本の国鉄線上から消えてなくなることが決まっていました。
私は、居ても立ってもいられず、どうしても蒸気機関車に乗って、走る姿を見ておきたいと考えていました。
ところが、私の世代は悲しいかな偏差値世代で、春休みといえども、これから中学3年生になるにあたって、講習会だとか塾などへ行かなくてはならない雰囲気があって、とてもじゃないけど親に「北海道へ行きたい。」などといえる状況ではありませんでした。
当時、北海道旅行といえば上野から夜行列車で青森へ行って、青函連絡船に乗り換えて、函館からさらに列車で向かうというのが常識でしたから、最低でも1週間はかかります。2週間あるかないかの春休みのうちの半分以上を旅行に使うなど、とても言える状況ではなかったのです。
でも、どうしても行きたい。
なぜなら、このチャンスを逃してしまえば、中3の夏休みに北海道旅行などもってのほかで、年末には蒸気機関車が消えてしまうわけですから受験が終わるまで待っていたら間に合わない。
つまり、相当なジレンマだったわけですが、そこは根っからの楽天家である私ですから、「う~ん」と時刻表とにらめっこして、「そうだ!」とひらめきました。
「飛行機で千歳を往復すれば日帰りで室蘭本線に行かれるじゃないか。」
当時の私は、時刻表を隅々まで読むのが日課でしたから、そう考えたのです。
日帰りでいろいろな所へ出かけて電車の写真を撮るのは小学生のころからやっていましたから全く問題ないわけで、「今日は写真を撮ってくる。」と言って夜までに帰ってくれば、いちいち行先を告げる必要もないし、親だってうるさいことは言いません。
郵便局の通帳を見ると世田谷のおばさんのところで稼がせてもらったバイト料が貯めてあって、行けない金額ではありません。
「よし、日帰りで北海道に行くぞ!」
3月の初めごろに、私はそう心に決めました。
当時、テレビドラマで田宮二郎が日本航空の機長さんの役をやる「白い滑走路」という番組がとても流行っていて、学校の友人に田宮二郎になりきっている飛行機マニアがいました。私は飛行機など乗ったこともありませんし、第一、どうやって切符を買って、どうやって乗ったらよいのかも見当もつきませんから、彼に、飛行機の乗り方を尋ねました。
彼が言うには、スカイメイトという制度があって、会員になっていれば空席がある場合に限り、半額で乗ることができる。でも、予約ができないから、当日空港のカウンターで空席待ちをしなければならない。
という、実に難解な理論を説明してくれて、私は何度も確認しました。
スカイメイト、半額、予約ができない、当日空港で空席待ち。
だいたい、空席待ちって何なんだ?
予約しているのに来ない人がいるのか?
切符に席番号が書かれていない?
搭乗手続き?
実に難解です。
空港に行くのはわかる。
航空会社のカウンターに行くのもわかる。
でも、チェックインと搭乗手続きって、どっちが先なの?
ちなみにこの当時、東京の中学生でクラスの中で飛行機に乗ったことがある子はせいぜい1人か2人ぐらい。
新幹線だって半分以上の子は乗ったことがない時代でした。
東海道新幹線開業後わずか10年でしたからね。
とにかくちんぷんかんぷんなんですが、それでも私は3月の中旬に彼に言われるまま、日本航空のカウンターへ行ってスカイメイトの会員になりました。当時板橋の家から一番近いところにあった日本航空のカウンターは新宿の京王プラザホテルの中。塾の帰りに寄り道して手続きをしたのです。
その時の日本航空時刻表。
東京から札幌までの大人片道運賃は18200円。
スカイメイトなら9100円です。
往復の航空券代と向こうでの交通費を入れても3万円あれば何とかなりますね。
問題は満席だと乗れないということで、この日から私は空席案内を自動応答テープで流している「お出かけダイヤル」に毎日のように電話をしました。
なぜ、毎日電話をするかというと、曜日ごとに混む日と空いている日があるだろうということと、時間帯ごとに混む便と空いている便があるだろうと考えたからで、2週間ぐらい電話をかけ続けるとだいたいの傾向がつかめると思ったのです。
そして、決行日は4月2日。乗る飛行機は朝一番の便と決めました。
昭和50年4月2日。全日空51便。トライスター。
私が初めて乗った飛行機がこれです。
日本航空の時刻表を見てさんざん検討した割には、人生最初に乗った飛行機はなぜか全日空。
その理由は、当時の私は日本航空よりも全日空の方が好きだったから。そして、帰りの便は座席数が世界最大のB747SRの方が空席待ちで乗りやすいから、帰りは日本航空になるだろう。せっかくだから行きと帰りで違う会社に乗りたいという思いもあって、早朝の羽田空港で全日空のカウンターに並んだのです。
機体番号は8509。この飛行機は後年国際線で活躍し、最後まで残ったトライスターでしたが、成田空港で働いている時にこの機体を見かけるととても懐かしく思いました。
滑走路へ行く途中で見かけた日本航空のDC-8。501便の札幌行です。
というわけで14歳の私は昭和50年4月2日に飛行機に乗って北海道へひとっ飛び。
午前8時40分に千歳空港に降り立ったのであります。
(つづく)
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