子供の頃の思い出。

NHKの朝ドラを見ていたら、最終のバスで帰ってくるはずのお父ちゃんを兄弟で迎えに行くシーンがありました。

暗闇の中、向こうからボンネットバスがやってくるのはまるでトトロの世界。

バスが着いても、お目当てのお父ちゃんが乗ってません。

兄弟は仕方なしに家に帰ります。

その手には、懐中電灯が。

 

「あれ? 昭和39年に田舎に懐中電灯が普及してたっけ?」

 

そんなことを思ったら、パ~ッと頭の中にある情景が浮かびました。

 

両国からキハ28とキハ26の編成の急行列車に乗っておばあちゃんちへ行っていた時のこと。

ある時、夕方の列車に乗って行きました。

上総興津に到着したのはとっぷりと日が暮れた後。

駅の改札口におばさんが迎えに来てくれていました。

街灯なども満足に整っていなかった時代、

その手には懐中電灯が。

銀色の懐中電灯。

ドラマのシーンと同じ銀色の筒型の懐中電灯でした。

40年どころか、50年近く昔のことなんですが、パ~ッと思い出しました。

 

すると、今度はどうでしょう。

 

夕方、両国駅で急行列車に乗り込むときのシーンが。

錦糸町方面から回送で急行列車が到着します。

両国駅の低いホームにはたくさんの人人人。

当時の列車はとにかく混んでいました。

真夏なので回送列車とはいえ窓全開で入線してきます。

大人たちはその列車が停止する直前に、手に持ったボストンバッグを窓から投げいれて席取りをします。

いちおう整列乗車にはなっていたと思いますが、たぶん列の後ろの方の人だったんでしょうね。

子供だった私も、スルスルと列をすり抜けて車内に入り座席を確保。

でも、大人たちがどんどん入ってきますから、せいぜい2席を確保するのが関の山でした。

一緒に行った父と伯父の分の2席。

「あきら、ありがとうな。」と言われて二人が座ると、私の席はありません。

私は背もたれと背もたれの間のスペースに潜り込みます。

今思えば、キハ26のキロ格下げ車だったんでしょう。

座席を向い合せに固定した背もたれの後ろに子供が入り込めるほどの隙間があって、そこに潜り込んで茂原辺りまでウトウトして行ったことを覚えています。

キハ26と言えば、運転席後ろのデッキに2席分の補助席があって、ここが前面展望の特等席でした。

運転士さんが時々後ろを振り向きながら、真剣に前を見ている私に、「ぼうず、汽車好きか?」「面白いか?」などと話しかけてくれて、千葉を出てから津田沼までの間で、「いいか、今からスピード出すぞ。」と言って80キロか90キロか覚えてませんが、今の言葉で言うところの「ドヤ顔」で遊んでもらったこと。

 

こういうことが、頭の中にパ~ッと蘇るから不思議です。

 

ドラマと同じ昭和39年から40年ごろ、私は内房線の巌根に住んでいました。

高柳という住所でしたが、毎日のように駅へ出かけて行っては汽車を見ていました。

蒸気機関車には2種類あって、ラクダさんの背中のコブが2つあるのと1つあるのの2種類がやってきて、2つのコブの機関車は貨物列車で、1つのコブの機関車が旅客列車でした。

あとになってわかりましたが、2つのコブの機関車はハチロク(8620形)で、1つのコブの機関車はC57かC58だったんでしょう。日曜日になると千葉駅に新しくできた駅ビルに買い物に出かけるのですが、たいていは蒸気機関車が引く列車でした。

買い物を終えて帰路に着くころにはすでに日が暮れて、千葉駅のホームで列車に乗りこんで発車を待っている間、向こうのホームにも汽車が止まっているのが見えます。

蒸気機関車の煙突から火の粉が出て、たぶん、石炭をくべるタイミングなんでしょうか。焚口を開けたときに蒸気機関車の運転席の中が赤くなるんです。

子供心に、暗闇の中で煙突から吐き出される火の粉と、運転席の中がボヤッと赤くなるのが何とも言えず不気味でした。

父か母に、「向こうに停まっている汽車はどこへ行くの?」と尋ねると、「ああ、あれは四街道から八日市場へ行くんだ。」と教えてくれましたが、火の粉と炎の不気味さもあって、その「八日市場」というのが私には「妖怪千葉」に聞こえて、「向こうのホームの汽車に乗って行くと、もう2度と戻ってくることができないとても恐ろしいところへ連れて行かれるんだ。」と思ってしまいました。

その「向こうのホーム」とは、今の総武本線のホームで、今、自分はその沿線に住んでいるというのが不思議なんですが、昭和40年の5歳の子供にはそう見えたんですね。

 

五井を過ぎると出光の製油所が見えるのですが、父が言うには「ほら、船の形をしてるんだぞ。わかるか。」

工場夜景の形が船の形をしていると評判だったようですが、私には全く理解できません。

何度も通るたびに同じことを言われるのですが、煙突の上からめらめらと炎が出ているだけで、結局私には船の形を理解することができませんでした。

長浦から楢葉(ならは)にかけては、線路は海岸線の波打ち際を走っていて、線路の下を見ると海でした。

楢葉というのは今の袖ヶ浦駅ですか。

 

休みの日には父の自転車の後ろに乗せてもらって、小櫃(おびつ)川へ鮒を釣りに行くんです。

でも、私は魚釣りなど全く興味もなく、ちょうど鉄橋でカーブする線路を走ってくる蒸気機関車や色とりどりのディーゼルカーを見るのが好きでした。

魚釣りへ連れて行ってもらった記憶はあるのですが、魚を釣った記憶ではなくて、汽車を見ていた記憶ばかりで、その中でもジュラルミン色をしたぴかぴか光ったディーゼルカーが先頭に立ってやってきた時には、「まるで東京の地下鉄みたいだ。」と小躍りして喜んだ記憶があります。

それが、房総に試験的に投入されたオールステンレス製のキハ35形900番代試作車だと知ったのも、ずっと後になってからのことでした。

 

とまあ、朝ドラのワンシーンに出て来た懐中電灯を見ただけで、こんなことをパ~ッと思い出してしまうのですが、はて、さて、昨日の昼飯は何を食べたのかが思い出せない。

 

昭和30年代生まれの人間というのは、そろそろそういうお年頃になって来たようです。

 

ひとつだけ、素晴らしいなあと思うのは、昭和39年製で千葉鉄道管理局に新製配置されたキハ28-2346が、今でもいすみ鉄道で走っているということ。

あの頃ピカピカでツヤツヤだったキハ28編成の急行列車の1両だったんでしょうね。

だから、私も巌根の駅で見送っていたはずなんです。

4~5歳の私が急行列車に手を振っていたはず。

その車両が今でもいすみ鉄道で現役で走っている。

 

そう考えると、いすみ鉄道の社長にしていただいてありがたかったなあと思うのであります。