昭和の残照 「ある日曜日」 その2

今日は穏やかな日曜日でした。
特別イベントがあるわけでもなく、それでもそこそこの乗車率で、なんだか、昔の国鉄支線のような雰囲気でした。
昔の国鉄といえば、やはり私にとっては子供の頃の思い出がたくさん詰まっていて、そういう思い出がある大人が、今、子供や若い人たちに思い出を作ってもらう仕事をしているということは、きっと、のちのち、今の人たちが、いすみ鉄道の思い出がたくさん詰まった大人になって、ローカル鉄道や田舎の原風景を次の時代につないでいってくれるのではないか。そういうサイクルができれば、この国はきっと素晴らしい国になるのではないか。そういう壮大なスケールの時代の流れの一翼を担うことができれば、日本人として自分の国に貢献できるのではないか。そんなことを考えていたら、なんだか無性に昔の写真が見たくなりまして、古いネガを取り出してみました。
前回、5月25日に続き、昭和の残照「ある日曜日」です。
昭和49年、私は中学2年生になっていました。
あと1年で蒸気機関車が日本全国から姿を消す計画が着々と進行していて、東京付近ではすでに無煙化が完了し、福島県の会津線、只見線も蒸気機関車が消えていました。
一番近いところでも東北の五能線や陸羽東線。西へ目を向けると、山陰本線の下関口が間もなく無煙化されるという状況でした。
あとになって知ったのですが、駅の構内などで入換に活躍する蒸気機関車は他にもいたようですが、今のように情報がいろいろ入ってくる時代ではありませんから、中学2年生の私としては知る由もなく、蒸気機関車を見たければ、九州か北海道へ行く以外に方法がなくなっていて、毎日毎日やりきれない焦燥感に駆られていたのです。
そんな時、東京都内で蒸気機関車が保存されているところが家の近くにあると聞き、たとえ保存車両でもよいから、本物の蒸気機関車に接してみたいという気持ちから、9月の日曜日にその保存蒸気機関車を見に出かけてみたのです。
目指すは大塚駅近くに保存されたC58。
自宅から地下鉄と都電を乗り継いでやってきました。

▲昔の都電の線路。今の荒川線です。向こうに見えるのは建設中のサンシャインでしょうか。

▲この都電の線路の脇にある公園にお目当てのC58が保存されました。

▲マンションの中にある公園です。

▲北海道スタイルの除煙板が取り付けられたC58-407です。
この機関車は昭和21年製。新製配置が苗穂で、一生を北海道内で過ごし、昭和49年に廃車になった機関車です。
つまり豊島区の大塚には縁もゆかりもない機関車ですが、この時代になるとSLブームが過熱していましたから、都内でも自分たちのところに蒸気機関車が欲しいという話になったのでしょう。近隣には既にありませんから、北海道から持ってきたと思われます。


▲運転席の下には「49-5大宮工」と記されています。
北海道からいったん大宮工場へ入れて、そこで保存展示のための整備を受けたということだと思います。
撮影が9月。記録を見るとその年の3月まで北海道で煙を上げていたようですから、わずか半年前まで走っていた機関車です。
都内の中学生にとっては、夢が膨らむわけですよ。
「ああ、北海道へ行けば、まだ蒸気機関車は走っている。」
そう思ったのを記憶しています。

さて、大塚でC58を見た私はもう一度都電に乗って王子へ向かいました。
目指したのは飛鳥山公園です。


▲ここ飛鳥山公園にも蒸気機関車が保存されていて、こちらはデゴイチ。
昭和47年6月まで羽越本線で活躍した酒田のカマです。
やはり「47-8大宮工」という文字が見えます。
実はこのころ、大宮工場、今の鉄道博物館のある付近、高崎線の線路の脇ですが、時々廃車されたSLが並んでいるのを見た記憶があります。
おそらく、各地で廃車された機関車をいったん大宮へ運び、整備をしてから保存地へ送っていたのではないでしょうか。
都内近郊で「蒸気機関車を保存したい。」という動きが出てきていても、すでに近くに保存できるような機関車がありませんでしたから、遠くから運んできたのです。
新橋駅前に展示してあるC11も、実は兵庫県から持ってきたものですから。


▲さて、こちらがD51853。
昭和18年製ですから戦時設計のかまぼこドームです。
当時としては、こういう機関車は美しさにかけるといわれていましたから、どうせ保存するなら戦時設計じゃない車両をと思いますが、そんなことを言っていられない状況になっていたのだと思います。

▲SLブーム真っただ中ですから、デゴイチは大人気で、地元の子供たちが上に乗っかって遊んでいます。
今なら怪我でもしたら大変だと大人たちが大騒ぎするところでしょうが、当時はそんなことお構いなし。
戦後、子供たちはひ弱になったと大人たちが言っていましたが、まだまだわんぱくだった時代でした。

▲さて、飛鳥山公園は裏へ回ると東北本線の線路があります。
王子駅へ渡る歩道橋がかかっていて、その橋に上がると向こうから貨物列車がやってきました。
電気機関車とディーゼル機関車の重連ですが、たぶんDLの方は回送ですね。新製された機関車が配置先へ送られていくところでしょう。こうして各地へ新製機関車が送られ、そこで活躍していた蒸気機関車と世代交代していったのです。

▲すると反対側からこんな機関車が。
当時を知る人には懐かしい国鉄の労働組合がメッセージを書きなぐっていた機関車です。
9月の日曜日ですから春闘ではありませんね。
まあ、こういうのも写しておいたほうが良いかなと思ってシャッターを切りました。

▲これが線路をまたぐ歩道橋です。
ボンネット特急が走り抜けるその向こうは京浜東北線の103系です。
信号機がちょうど真ん中に入っているのは中学2年生ですからご勘弁ください。

▲まだ新車の雰囲気があったEF65-1000番台。
今の人たちはPFと呼ぶようですが、私たちは1000番台って呼んでいました。1002号機です。



▲この陸橋は実に楽しいところで、しばらく滞在しているだけで、いろいろな列車がやってきました。
EF81に引かれた旧型客車の列車は今思うと何だったのか。こんな列車はいくらでも走ってきていましたから気にも留めませんでしたが、ドア横にサボが入っているから優等列車でしょう。機関車はEF81ですが常磐線ではありません。
王子ですから尾久への回送でもないし、だいたい上野からの回送なら推進運転だったはずだし。
10系の軽量客車は当時は普通列車にはあまり入っていませんでしたから、やはり臨時の急行列車でしょうか。
それにしても乗客が乗っていない気がするし、行き先サボはありません。
謎だらけの1枚です。


▲とまあ、そんな楽しい時間を陸橋で過ごした私は京浜東北線のホームへ上がりました。
ちょうど181系の「とき」が通りかかり、反対側の下には都電が走っています。
当時の私はけっこう都電が好きだったことが分かりますね。
貴重なフィルムをこんなカットに使っているのですから。
さて、板橋から大塚、飛鳥山とやってきた私は、ここ王子から京浜東北線の電車に乗ったわけですが、この後果たしてどこへ向かったのか。
それはまた次回のお楽しみということで、本日はこの辺でペンを置くことにいたしましょう。
昭和49年9月29日。
中学2年生のある日曜日のお話でした。
(つづく)