文明と文化

明治維新は文明開化。その維新とともに開業した鉄道は文明の象徴でした。
それまでの馬車や汽船を追いやり、またたく間に日本中に敷設され、今日までの140年以上、鉄道は日本の屋台骨を支えてきました。
鉄道の歴史はスピードの歴史でもあります。
東京から大阪まで、戦前は9時間だったものが、電化の延伸で8時間になり、電車特急「こだま号」の登場で6時間になり、新幹線「ひかり号」で3時間になり、今、「のぞみ号」に乗れば、2時間半で到達します。
このように、鉄道というのは、目的地に少しでも早く到着できるように技術革新を続けてきました。
でも、今、本当にそのスピードが必要なのでしょうか?
例えば東京から大阪まで、2時間半で行くことは確かに大切なことかもしれません。でも、東京から函館まで4時間で行くことは必要でしょうか。
地面を這って走ることを専門とする事業者にとってみれば、時速300キロで突っ走り、海の底をもぐって行くことは、それはそれは素晴らしいことかもしれませんが、今の時代、そんなことは別に鉄道がやらなくたって、他の交通機関で十分なわけです。
その証拠に、今日は青函トンネルに旅客列車は走っていません。
線路を新幹線に切り替えるための工事で運休しています。
そして鉄道会社のホームページには、「船か飛行機で行ってください。」と書かれています。
何としてでも輸送を維持しようという姿勢が見られませんし、もしかしたらそこまで頑張るほどの輸送需要がないのかもしれません。
その程度の需要のところに、国家プロジェクトとして新幹線を走らせようとする行為は、おもしろいなあと、私は思いますが、皆さんはどのようにお感じになられますか?
鉄道が最新技術の粋を集めて、1分でも早く目的地に到着しようと、過去140年間やってきましたが、私はコレは「文明」だと思います。
技術革新をして、安全性を高め、列車を高速で運転することは、文明の発展に伴って可能になったことです。でも、だからといって、地面の上を這うように走るシステムが、これ以上速く走る必要はないのではと思います。まして、何かあった時のために、というBCP的観点から見ても鉄道はすでに対応できなくなってきていることは、昨今の事例を見ても明らかですからね。

速く走ることにはいろいろな弊害もあります。
私は先日長野市内へお邪魔いたしましたが、長野の駅前の大きなホテルが廃業して看板が外され、もう何年も前から廃墟のようになっています。
県庁所在地の駅前の光景とは思えません。
地元の人に聞いたところでは、「新幹線の弊害だよ。」とのこと。
新幹線ができる前は、東京から長野へ行くと言えば、当然泊りが前提の出張でした。
でも、新幹線ができて便利になったので、長野は日帰り出張が当たり前になったのです。
だから、ホテル業が打撃を受け、いくつも廃業しているそうです。
文明が発達して便利になって、今まで2日かかっていた仕事を1日でできるようになる。
そうすると、本当ならその人は1日得をするはずです。
2日のうち、1日浮いたわけですからね。
でも、日帰りで帰ってきて、次の日には別の仕事をするわけですから、実際には2日間かかっていた仕事を1日でやることで逆に忙しくなっているわけで、これがつまるところ「文明」の行きつく先であります。
では、鉄道が速度を追い求めるのをやめて、ゆっくり走ることを始めたらどうなるでしょうか。
100キロで突っ走っている特急列車が、半分の50キロぐらいで走るのです。
そうすると駅弁だってゆったり食べられますし、景色だって違って見える。
連続する急カーブを車体を右に左に傾けて、乗っているお客さんが目を回すような走り方をしたって、所詮高速道路や飛行機にはかなわないとすれば、いっそ、思い切って、速く走ることをあきらめて、のんびりしてみるのも一つの方法かもしれません。
そして、私は、鉄道が速く走るのをやめて、ゆっくり走ることを始めるとすれば、それは「文化」になると思うのです。
「文明」と「文化」の違い。
「所要時間が3時間を切り、2時間58分になりました。」
これはわかりやすいです。はっきりしています。
誰にでも理解できます。
それが「文明」です。
でも、「ゆっくり走ると景色も違って見えますよ。」と、まあ、こんなことを申し上げても、「お前何言ってるんだ?」という人が多いと思います。
なぜならば、「文化」というのは、わかる人にはわかりますが、わからない人にはわからないものだからです。
美術館や博物館へ行って、展示されている作品を見ても、わからない人にはわかりませんからね。
文明はマス(大多数)を相手にするものだとすれば、文化は少数派を相手にするものですから。
でも、鉄道がゆっくり走ることは紛れもなく「文化」であり、それが今、全国のローカル鉄道で見られるのです。
だから、ローカル鉄道の旅の楽しみは「文化」でありますから、わからない人にはいくら説明したってわからないものなのです。
さて、では観光鉄道としてのローカル線を別の側面から見てみましょう。
観光というものに対しての考え方は、以前は名所旧跡を訪ねるものとされていましたが、近年は急速に変化してきています。おいしい物を食べることはもちろん、ふだんできないことを体験することすべてが観光として受け入れられるようになりましたので、日本全国津々浦々に観光資源が見いだされるようになってきました。
いすみ鉄道のようなローカル線だって、今では立派な「資源」として認識されるようになっています。
では、「資源」とは何なのでしょうか、という疑問がわきます。
資源というものは、見る人が見れば資源なのですが、わからない人から見たらゴミかもしれません。
見る人が見れば宝石の原石ですが、わからない人が見らた単なる石ころに見えるのが資源です。
そう考えると観光資源だって、その価値がわからない人から見たらゴミ、つまり不要なものかもしれませんが、見る人が見たら、ものすごいお宝のはずです。
いすみ鉄道だって、数年前まではゴミ扱いされていたものが、今では立派な資源として認識されるようになりましたが、これは私が宝石の原石と石ころを見分ける目を持っていたことと、その磨いた物の価値を皆さんが理解してくれたからなのでありますが、今、地方創生の名の下に、日本全国ぞれぞれの地域で、それぞれの人々が、資源を発掘しようと、自分たちの足元にある石ころを一生懸命磨き始めているのだと思います。
ただ、その磨いているものが、宝石の原石なのか、それとも単なる石ころなのかは実にあやふやなところで、うまく原石を見つけて磨いているとすれば、やがてきれいな宝石になるでしょうが、単なる石ころをいくら一生懸命磨いてみたところで、石ころは所詮石ころですから、数年後に徒労に気付いてくたびれ果てているのではないかと心配になるのです。
ただ、一つ救われるとすれば、おそらく日本全国津々浦々に落ちている石は、単なる石ころは一つもなくて、すべて磨けば光る宝石の原石であると私は考えているのですが、そうなってくると、今度はその石の磨き方を注意しなければ光らせることはできませんから、やはりかなりの難関が待ち受けているのではないでしょうか。
では、どうすればよいのか。
簡単な方法をお教えしましょう。
「文化」を理解する人たちは、「資源」の価値を理解するということです。
田舎の町の良さを理解できるのは、都会の人たちです。
田舎は過疎で不便ですから「文明」では都会に勝てません。でも「文化」では都会に勝てるはずです。
ところが、日本の田舎は昭和の時代から「文明」を追い求めて「文化」をないがしろにしてきたところがほとんどです。
だから、その人たちには自分たちの持つ地域の「文化」は何なんなのかが見えないのです。
でも、都会の人たちは田舎の素晴らしさを気付いていますから、そこに「文化」があり、「資源」があることが理解できるのです。
この辺りをきちんと理解して、素直になれるかどうか。
ここが「文化」と「資源」を結び付けられるかどうかでしょうね。
いすみ鉄道には今日も「文化」を理解するお客様がたくさんいらしていて、「資源」を磨いて光らせている地元の人たちがおもてなしをしてくれています。
そのおもてなしというのは、「自分たちができること」と「お客様が喜ぶこと。」の2つの要素を同時に持っていなければならないということをきちんと理解している人たちが活躍しています。
「文化」を理解する人たちがお客様で、「資源」を理解する人たちがおもてなしをしている。
少数派と少数派がうまくマッチングして、田舎の鉄道のお客様が絶えない形になっている。
私は、いすみ鉄道沿線の数年後がとても楽しみなのです。