先日、京都の梅小路蒸気機関車館に行きましたが、そこでは大好きな煙のにおいをかぎました。
蒸気機関車の出す石炭の煙は、何とも言えない甘い香りがして、油のにおいとともに、私はとても懐かしく感じます。
5月には大井川鉄道でC10の走る姿を見ましたし、4月には鳥取県の若狭鉄道でC12の走行社会実験に参加させていただきましたし、このところ、蒸気機関車とたくさんの出会いに遭遇していて近年になくうれしい気分です。
日本の国鉄から蒸気機関車の列車が消えたのが1975年12月。
室蘭本線のC57135が引く最後の旅客列車が12月14日で、その10日後にD51241の貨物列車が夕張線を走って、蒸気機関車が国鉄の線路から消えたわけですが、私は当時中学3年生で受験の直前とあって、どちらの列車も見送ることができませんでしたので、その悔しさがバネになって、40年が経過した今でも、蒸気機関車に目がないわけです。
ところが、この写真をご覧になっておわかりのように、蒸気機関車というのは黒煙を吐きます。
これが写真を撮ったり、眺めている分には実に絵になって格好が良いのですが、お客さんにしてみたらたまったもんではありません。
蒸気機関車としては小型の部類に入るC56でさえ、ややもするとこれだけの煙が普通に出るわけですから、大型の機関車ではその煙の量たるや、ものすごいわけで、機関区のようなところで、たくさんの機関車がたむろしていたら、すごいことになるわけです。
また、蒸気機関車というのは、発車の時に蒸気を必要としますから、駅のホームで発車待ちをしている時から煙を上げ始めて、発車していくときには、駅構内が煙に包まれます。
昔は旅行中に知らない町で駅の場所を探そうと思ったら、汽笛が聞こえてきた方向を見ると煙が立ち上っていて、そこが駅だとすぐにわかりましたが、一回列車が発車するたびに周囲が煙に包まれるのですから、考えてみたら沿線の人たちはたまったもんではありません。
いくら、「鉄道は明治の時代からあって、お前さんは鉄道があるのを知っていてあとからそこに住んでいるんだろう。」と言われたところで、洗濯物は汚れるし、いちいち腹が立つわけですね。
都内から蒸気機関車が消えたのは昭和44年ですが、当時は鉄道沿線にマンションなどほとんどなく、今とは比べ物にならないほど静かなものでしたが、それでもエアコンなどない時代ですから、沿線の民家では窓は開けっぱなしで、洗濯物も外干し。そういうところへ蒸気機関車が走っていたのです。
いすみ鉄道には今でも新小岩や佐倉の機関区で蒸気機関車に乗務していた方々が働いてくれていますが、彼らの口から出る言葉は、「黒煙を出さないようにすることに一番気を使った。」ということ。
大変なご苦労をされていたことが分かります。
お客さんの方も大変で、若い娘さんが白いブラウスを着て列車に乗ろうものなら、せっかくのおめかしが台無しで、それこそ悲しくなるような、煤だらけになってしまうわけですから、当時の国鉄が躍起になって蒸気機関車を排除しようとしていたことが解るというものです。
高校受験の重圧から解放されて、いざ自由に旅行ができるようになったと思ったら、日本全国から蒸気機関車が消えていたという経験をした私にとってみれば、あと10年、いや、あと5年蒸気機関車が残っていてくれたら、自分は思う存分汽車の旅を楽しむことができたのにと思って「あれから40年」を過ごしてきたわけですが、ふと考えてみると、蒸気機関車があと10年残っていたら、公害の対象として嫌われ者になっていたはずだし、そうだとすれば、こんなに大切に思われることもなく、保存しようなどという気も起らず、「ああ、やっと無くなってくれた。」、「いなくなって清々した。」と思われていたでしょうから、考えてみると、1975年(昭和50年)に蒸気機関車が引退したというのは、今思えばちょうど「潮時」だったということなのでしょうね。
あくまでも、今思えばの話ですが、梅小路で機関車の煙のにおいをかいでみて、そんなことに気が付きました。
惜しまれながら消えていく。
蒸気機関車は、引退劇の演出の見事さから、40年たった今でも人々の心の中に棲みついているということなのです。
昭和44年 下総中山を発車するC58牽引貨物列車(撮影:山路善勝氏)
すごいですよね。住宅密集地帯をこんなのが走っていたら、今ならクレームの嵐でしょうね。
いろいろな考え方があるとは思いますが、「潮時」というのは、「あ~、あの時」と、後になってわかるものだということだけは、どうやら確かなようです。
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